日本測定器株式会社疎開資料

詳細情報
資料No G-51
カテゴリー
資料内容 昭和18年頃に作成された疎開企業の工場配置図・設計図等の図面類と写真
解題

戦時中に長野県に疎開した日本測定器株式会社の須坂工場の配置図・設計図等の図面類と写真である。令和四4(2022)年2月20日に寄贈された。

明治時代後期、宮本長作により設立された宮本組は、長作の死後、2代目長作・弟茂次により事業が継承された。昭和8年、建設部門から設計部門が分離し、茂次により須坂工務所(須坂市春木町)が独立した。茂次は逓信省技手に採用され、大阪船場・難波電話局、関東大震災後の復興に従事したのち、宮本組東京出張所長となっていた。大正・昭和初期、須坂町役場、長野郵便局舎、県内各地の県立中等学校の設計を請け負った事務所である。昭和38年、長男忠長が引き継いだ。現在の宮本忠長建築設計事務所である。 

本資料は、宮本家に残されていた昭和18年ごろの設計図面27枚である。東京勝鬨にあった

日本測定器が、戦時疎開として須坂町相森地区に工場移転をおこなった。これをすすめたのが常務取締役井深大であった。その際、相森町にあった霜田製糸場を工場として転用した。

日本測定器が須坂へ移転した事実は、戦後史のなかで記述されているが、具体的な工場の状況は平面図を含め不明であった。これによれば、昭和18年の施工は全体の模様替えだけでなく職員玄関、ボイラー室、寄宿舎、弓道場などこの工場の全体像が図面によってうかがえる。疎開工場の実態は知られていないことが多く、極めて貴重な資料と言える。なお日本測定器は194510月に井深を中心に東京通信研究所となり翌年東京通信工業(株)(現在のソニー(株))となっている。

このほか施工業者宮本家に残されていたスナップ写真1枚がある。井深大を中心に須坂町の宮本茂次ほか家族が写っている貴重な写真である。

登録年度 2022
収蔵データ検索 資料検索

書籍・史資料

ページ先頭へ戻る