木曽郡殿村池口寺文書
資料No | 6-5〔6〕/6-5 |
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地域 | 木曽 |
古文書 | 本文書は令和3年7月、木曽郡大桑村池口寺より寄贈された文書28件である。瑠璃山池口寺は臨済宗定勝寺末である。中世までは美濃国小木曽荘殿村とある。
内容的には、殿村小野家文書および半場家文書よりなる。前者は『信濃史料』に掲載された1582(天正10)年および1606(慶長11)年の文書4点で、『信濃史料』編纂時には小野壮三氏所蔵文書として採録された。池口寺の先々代住職小野壮三氏(元大桑村長)であったことから当寺に伝来した。後者は同村半場氏の近世から明治の帳簿類で、小野氏の縁戚である。 本文書の特徴は、木曽義昌家臣小野内記に関わる文書が原本として残されている点であろう。1590(天正18)年の小田原合戦のあと木曽から下総国へ移封となった際の従士録に名前が見える(岐蘇古今沿革志)が、木曽家断絶の後は山村甚兵衞とともに木曽代官として本貫池へと戻った。 このうち6-5-1は小野内記助に筑摩郡桐原・林郷に所領を宛ておこなうというもの。天正10年6月に本能寺の変で信長が死ぬと、義昌は安曇・筑摩両郡の支配権を追われた。この文書は、すでに実効支配を失っていた桐原・林という小笠原氏の所領を、木曽氏が勝利したら与えるという空手形である 木曽義昌宛行状 於桐原之内百貫文所可宛行候、并林之郷可預置候、納所等寄麗可走廻、殊武具・馬具等嗜可稼者也、仍如件 壬午 七月廿七日 玄徹(花押) 小野内記助殿 6-5-2、3は榑木・土井(いずれも年貢用の木材)をいくらで売買するかということを代官山村良勝らが定めた文書である。薄い土井は100につき銀750匁、厚い土井は400匁、と薄い用材のほうが高い。京都と木曽で売値が違うので、調整して改めて値段を設定するように定めている。 「山村良勝等連署定書」 木曽御土井代定覚 一薄土井百駄ニ而丁銀七百五拾匁 一厚土井百駄ニ而丁銀四百匁 右分ニ祢段相定申候、但此以前之御ねたん、厚土井五拾五駄、薄土井五拾駄、合百五駄ニ而判金壹枚ニ御定候ヘ共、金銀両替不同ニ付而、商人衆判金にかい不申候間、只今各寄合、上方・田舎の土井うりねを積合、右之通ニね段相定申候、為後日各連判仕候、以上 慶長十一年 山村甚兵衞(花押) 午七月十一日 小野宗左衛門(花押) 石原清左衛門(花押) 天羽吉右衛門(花押) 遠山久兵衛(花押) 「山村良勝等連署定書」 木曽御榑木代定事 一千丁ニ付而丁銀三百五拾匁ニ相定申候、此以前之御ねたん、くれ木千七百丁ニ付而判金壱枚ニ御定候へ共、金銀両替不同ニ付而、商人衆判金ニかい不申候間、唯今各寄合、上方・田舎之くれ木うりねを積合、ねたん右分丁銀三百五拾匁ニ相定候、為後日各連判仕候、以上 慶長十一年 遠山久兵衛(花押) 午七月十一日 小野宗左衛門(花押) 天羽吉右衛門(花押) 石原清左衛門(花押) 山村甚兵衞(花押) 6-5-4は戸田右衛門が、土井の売上金は銀で納めることをさだめ、山村・遠山・小野宗左衛門とともに立ち会って売帳に判を据えて、賣買を銀で為すように決めるように心得よ、と記されている。
戸田右衛門連署状 尚々、各立合にてねたん御極 連判にて御極可有之儀ニ候間、其通ニ可被成候、是 ハ先日上野殿御通ニ被仰渡候間、小宗左[ ] 付而如此申入候、以上 急度申入候、仍小宗左とい(土井)うりの儀さいせんゟ銀子ニうり申候、今以其通御算用仕上申度由被申上候ニ付而、上野殿かた先日きふにて貴所へ被仰付候ことく、山甚兵衛殿・遠兵衛殿・小宗左貴所之両人御立合候而うり帳に判を被成候而、銀子ニ御極可有被仰候、其心得可有候、恐々謹言 戸 右衛門 九月十七日 (花押) 大 信濃守(花押) 石清左殿 天羽吉衛殿 なお、この4点は原本ではなく、写真版での閲覧となることを申し添える。 |
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