佐久郡八重原村黒沢家文書

詳細情報
資料No 佐久〔2〕/2-31
地域 佐久
古文書

 本目録に収録した標記文書は、2019(令和元)年に、埼玉県原田睦子氏より寄贈を受けた文書である。総点数2,677点にのぼる。1567(永禄10)年下之郷神社に奉納した「敬白起請文之事」の写、1653(承応2)年の願書写がもっとも古い文書となるが、原本では1662(寛文2)年以降の年貢割付帳が最古である。割付帳は17世紀後半からかなりまとまった形で残っている点は、本文書群の大きな特徴と言えるだろう。このほか、質地證文・土地売買證文も多数含んでいる。
 黒澤家は、近世において「佐久の四新田」の一つとされる旧北御牧村八重原新田のもととなった八重原用水を開鑿した黒澤加兵衛を祖とする家である。
加兵衛の祖父黒澤駿河守重慶は武田氏家臣で、武田氏滅亡後黒澤家は小諸城主松平氏などに仕えた。加兵衛自身も、小諸城主松平氏、青山氏などのもとで召し抱えられ、農村支配に関わる役を務めていた。松平氏が駿河城代を命じられ、加兵衛も追従した。この際400~500両を蓄え、その金を八重原新田の開発に投じたという。
用水・新田の開発は、1653(承応2)年から1660(万治3)年にかけておこなわれた。その後加兵衛は、1662(寛文2)年、青山氏が大坂城代となったのに伴い娘婿三郎兵衛に家督を譲り、大坂へおもむいた。青山氏の浜松移封で浜松にも住んだが、1689(元禄2)年)八重原村に戻り、2年後80歳で没した。(『北御牧村誌』による)
 黒澤家文書は、八重原用水およびその後の新田開発において中心となった家に残された文書群であり、貴重な資料である。原文書としての時代は、加兵衛が家督を譲った寛文2年から昭和にまでおよび、目録の表題を見る限り長きにわたり用水に関わってきた様子が読み取れる。
また、当館には、同じ「佐久の四新田」の一つ塩沢新田開発に関わった六川長三郎に関わる「立科町六川長三郎文書」(2-21)、平成29年に寄贈された平尾用水関係文書(2-25「佐久郡平尾村森泉家文書」)が所蔵されている。いずれも佐久地域の近世文書群のなかで点数の多いものであり、本文書群はこれらと関連して研究していくことで、小県・佐久地域の用水史を進展させることができると考える。

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