伊那郡大草村高坂家文書

詳細情報
資料No 伊那〔4〕/4-42
地域 伊那
古文書
本目録に収録したのは、2017(平成29)年度に上條信彦氏より追加寄託を受けた収集史料である。伊那郡大草村高坂家文書としては、当館に寄託されている高坂清人家文書があるが、本史料は一族の別家である。大草村は現在の中川村・飯島町にまたがる地域である。
 本文書群の特徴は戦国期の文書写を複数所持している点である。そのうち浪合備前守宛の川中島合戦関係の文書が2点、および1574(天正2)年の文書が含まれており、高坂氏が三信国境の地侍浪合氏の縁族と覚しいことが知られる。
 また信濃史料には含まれていない京極高知の印判状原本も含まれている。
  定
  高以
   合貳千貳拾壱石八斗                      大草之郷
   六ツ取  
   千貳百拾三石九舛                         物成
   文禄二二(四)年 五月十三日                 生双 黒印
     大草之郷香坂右近助殿 
 
 1595(文禄4)年、飯田城主京極高知が伊那郡大草郷(中川村)の香坂右近助に対して、村高と物成(年貢)の高数を記したものである。前年の9月にも、印判で年貢請取状が発給されており(『信史』18-13頁)、春の年貢高確定と秋の収納とそれぞれ文書が出されたと見られる文書である。香坂右近助は、もとは武田家家臣で、文禄3年の「いいつたい(言伝)の事」(『信史』18-14頁)によれば「昔宗良親王様信濃国伊那の大草の山里にかくれし時、先祖も従い世の訪れ悪しき故に大河原の深山に御供致し久しく立籠し末に、鎧・旗とも給わりて家の宝に傳る、また後々子孫甲州武田家へ従い申候」と来歴が知られます。実際には1572(元亀3)年、右近助宗満は知久頼氏に伊那郡下村・毛呂窪を宛がわれている。(『信史』13-529)。1581(天正9)年、武田勝頼は宗満に円福寺に伊那辺のうち大蘆の大坊分を宛がっている(『信史』15-18~19頁)。天正18年には毛利秀頼の家臣となっており、益田芝次とともに奉行人として虎岩道正入道に年貢進納を伝えている。さらに秀頼没の翌年、文禄3年9月には大草山里巳年の年貢2566俵1升3合を請けとった旨を香坂右近助に対して京極高知の黒印状が出されている(『信史』18-13頁)。飯田時代の京極氏の知行宛行状及び定書は、入部した文禄2年に5通、翌3年3通、4年2通が知られ、この文書が新出であることがわかる。
 近世の大草村は、旗本近藤氏・井上氏の相給地であった。総村高が2021石の大村であった。通称「大草領」と称された地域呼称を有し、宮地・日曽利・飯沼・谷田・間柱・大河原・鹿塩の郷村より成った。明暦3年に井上領が飯島代官所支配の天領となったことから、飯島御役所宛の関係文書も多いことが特徴である。当館には大草村塩沢家文書(4-41)、横前家文書(現在整理中)も収蔵されており、今後当該村の研究を深める事が可能だろう。
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