県立歴史館で購入した流出史料文書のうち、家文書や個人収集資料として一群をなさない単体文書を便宜的にこの分類に収めた。おもに信濃国関係の一紙文書・軸装などが含まれる。 1 平成27年度県外古書店より購入した文書。史料の性格は『長野県立歴史館研究紀要』22号(20 16年)の福島正樹による史料紹介を参照。 2・3 平成27年度に県外古書店より購入した史料群。 慶長5(1600)年6月2日、および7日付で、仙石秀久が北六左衛門に宛てて出した知行宛行状。仙石秀久は豊臣秀吉の最古参の家臣与力(家臣)のひとり。秀吉配下の古参家臣のなかで若年ながら頭角を現したが、天正14(1586)年、秀吉の九州征討戦の過程での敗戦により失脚。所領を没収されたが、天正18年の小田原攻めで奮戦し、その功を認められ信濃国佐久郡を与えられ小諸城主となった。本文書は、復活後の小諸城主時代のもので、関ヶ原合戦直前のもの。北六左衛門が仙石秀久に妻子を差し出して味方に付くことを示したことに対し、秀久が北氏にたいし、まず200貫文、5日後にさらに100貫文を宛行ったものである。関ヶ原合戦直前の緊迫した情勢の中で、秀久が家臣の知行宛行いに腐心していた様子がうかがことができる。なお、宛行われた200貫文は妻子を小諸城下に引っ越しさせたことに対するものであったことが知られる。当時進展していた家臣団の城下集住に関する史料として理解することが出来る。知行を宛行われた北六左衛門については現在のところ未詳。「為知行遣分事」で書き出す文書の形式は、小諸城主時代の慶長年間の知行宛行状に共通するものである。 4 松本藩士木下秀勝の子として明治2(1869)年に生まれた自由民権運動家で初期社会主義者である木下尚江の自画像で、県外古書店より購入したもの。木下は「信陽日報」の記者、弁護士などの活動もおこない、松本キリスト教の洗礼を受け、キリスト教人道主義者として日露戦争非戦論を唱えた。軸装された書翰の宛名から、本史料は高崎在住のキリスト教者住谷天来にあてたものと推測される。住谷は内村鑑三らと交遊した「万朝報」記者で、のち郷里の群馬県にかえり伊勢崎教会、甘楽教会の牧師となっている。キリスト教徒、非戦平和主義者として活動していたことから、木下との交流が生まれた。木下の自画像は知られていないが、自画像の書名に「病野老」とあることから病を得た晩年のものと見られる。切手の印字が「12.3.7」となっている。また自画像も3月7日付となっている。木下は昭和12(1937)年に癌を発症しその年の11月に没していることから、昭和12年の作品と推定しておきたい。 5 開館時収集資料のうち。文久元年から2年にかけて道中宿駅の対応について抜き書きしたもの。筆者は松本能真。 6 仁科記は開館時収集資料のうち。仁科神明宮の由緒を記した巻物。 7 開館時収集資料のうち。佐久間象山の漢詩「修類藁」の写。 8 平成9年度夏季企画展「殖産興業と万国博覧会」に展示するために購入した第3回内国勧業博覧会 錦絵。370mm×750mm 9-1 二郎三郎・姫如が金福聚院へ田地を売り渡したことを示す売券。田地は依重名の内から得分の一部を抜き出し留保した上で売り出した抜地である。一段につき三斗の得分があった。二郎三郎等は2貫500文で抜地を売り渡し、毎年30文の御年貢を納めて知行するよう記している。 9-2 信濃守護家出身の小笠原貞慶書状の正文である。内容は、「この度の種々奉公の心懸けは比類がない。また、府中打入の供を致すとの由、神妙である、これにより竹渕100貫の地を約束する」というもので、府中・竹渕(松本市)の地名がみえる。天正10年(1582)に貞慶が徳川家康の力を得て深志(松本)城を奪回した時のものと考えられる。江戸時代の聞書の『二木家記』『箕輪記』で箕輪衆が小笠原氏に協力したことは知られているが、この文書により、この記述が歴史的に裏付けられる。 9-3 信濃国の国人、木曽義昌の朱印状で、大槻清左衛門尉に宛てたものである。「郷村を穿鑿した上で一騎前に宛て行うと(上位者が)仰せ出されました」という奉書形式のものである。同様の文書は三村織部佐にだされている。この文書により箕輪地域が木曽義昌により具体的に支配された時期があることが正文により明らかになる。 9-4 天正11年に「窪分定納十五貫文を宛て行う。向後は武具・馬具で馳走するように」という軍役を求めた木曽義昌の朱印状である 10 市河文書(本間美術館所蔵 重要文化財)の一通だったがいずれかの時期に散佚したものを平成29年度に当館で購入したもの。本文書は、二宮氏泰が信濃の武士市河甲斐守頼房に対して、合戦の労をねぎらい、あらたに信濃国守護代として二宮式部を任じたことを報告し更なる忠節を求めた文書である。 11 南安曇郡役所に関わる行政簿冊。町村合併による役場建設・改称などに関する書類。とくに郡役所の平面図・立面図などが添付されており興味深い。 12 切支丹高札(きりしたんこうさつ)で、伊那郡葛島村(駒ヶ根市)で作成されたもの。 13 「木曽願書」は幸若舞をテキストにした奈良絵巻。本絵巻の料紙は金泥で草花の下絵が施された美しいものである。挿絵は4枚でいずれの場面にも義仲が描かれたものである。当館には木曽義仲合戦図屏風がやはり奈良絵本の貼絵(12枚)の状態で残っている。しかしその場面で義仲と確認できる画面はわずか1場面であることから、本絵巻はきわめて特徴的なものでいわば「木曽義仲絵巻」といってよいものである。時代は、筆致・本文の書風などから奈良絵本全盛期の寛文・延宝期を下らないものであろう。史料の劣化があり写真対応となっている。 14・15 信濃国埴科郡五加村 坂口式三郎関係史料。 16 「夜の鶴」は「十六夜日記」などで知られる阿仏尼の作である。阿仏尼は鎌倉時代の貴族藤原為 相の母で冷泉家の家業である。本書は歌学をまとめた歌学書である。この原本は知られず、残される写本は、(1)冷泉家所蔵本および(2)蓬左文庫本の2系統が知られる。(2)は奥書に戦国時代、戦国大名武田信虎の所望で冷泉家の当主為和が原本をもとに写し取った旨が記されるもの(1次写本)である。本書は後者に位置づけられる。「為和(花押影)」と奥書にあることから、蓬左文庫本を写し取った2次転写本ではないことは明らかで、むしろ本書は原本の花押を臨書して写しとった1次転写本の可能性が高く、花押影が掲載される意味でも貴重な1冊である。 17 武田晴信感状は天文24(1555)年第2回川中島合戦に関わる武田晴信(信玄)が発給した感状である。これまで知られているなかで、このときの合戦の感状は十三通ある。蘆川氏は、高井郡井上衆のひとりで、「文禄三年定納員数目録」では蘆川藤蔵が百石高の地侍としてみえる。また、天正12(1584)年には高井郡中條銚子塚(小布施町)に蘆川囚獄が所領を与えられていることが分かっている。時代的に見てこの文書の受給者は「蘆川囚獄」にあたるのではないか。「との」付であること、また書止文言が「如件」となっているからも、蘆川氏が軽輩の士であることがわかり、この文書は当時の書札に合致している正文であることがわかる。 18 永禄4(1561)年3月30日、三好長慶邸に将軍足利義輝が御成した際の記録。蔵書印から真田藩家老飯島勝休の手沢本であったことがわかる、出所の明瞭な写本である。当館所蔵飯島勝休史料の欠本を補うものである。当時、幕府の実権を握っていた三好氏は、将軍の力を凌駕していたが家格の上では将軍の家臣細川氏の陪臣であり、異例中の訪問であった。式三献の料理作法で献上物の互酬がおこなわれた。当時、三好家には小笠原長時が滞在していた。また、足利義輝の奉公衆に小笠原稙盛がおり、将軍の御成に近侍していたことが記されている。長時は京都滞在中に、この稙盛を通じて将軍家との交渉をおこなっていた。稙盛もまた長時を「御屋形様」と称し、同族の主として位置づけていた。この史料からは、永禄4年時、京都周辺が、阿波三好氏周辺の勢力で圧倒されていたことがうかがえる 19 当館で収集された戦後労働改革に関わる紙芝居コレクション。第2次世界大戦後改革のなかで労働問題の改善は大きな柱の一つとして位置づけられた。昭和22(1947)年に発足した労働省の下部組織として労政局、労働基準局、女性局(婦人少年局→婦人局)、職業安定局、職業能力開発局がおかれた。特に、労働組合の保護、女性の解放という観点では改革の大きな柱となった問題は、国民への積極的な啓蒙が課題となった。婦人労働問題、年少労働問題、そして一般の婦人問題に関する施策のため婦人少年局が設けられ、山川菊栄が初代局長となっている。山川がとくに国民への啓蒙活動のために積極的に活用したのが、メディアとしての新聞、幻灯機や紙芝居であった。本史料群は労働関係の民主化をうたう戦後改革において、とくに女性や年少者の生活がどう変わるべきかを現場においてわかりやすく説明した実際の資料である。 20・21 京都古書店より購入した掛幅で、府中小笠原家に伝来したもの。詳しくは村石正行「府中小笠原家文書」(『長野県立歴史館研究紀要25』2019年)を参照のこと。 22 諏訪上社神宮寺の塔頭(たっちゅう)如法院(にょほういん)に宛てた武田家朱印状。永禄3年頃から武田信玄は諏訪上社の祭礼を復興するために頭役や造営役を信濃国内の武士に命じている。寺院に対しても年貢取分を造営役などに振り分けるなどし諏訪社再興をはかった。こうした動きが一段落し、永禄10年には各寺院に先例の通り取り分を還付するように命じている。この文書は、上社境内にあった如法院に対し、造営分に振り替えていた上桑原郷籾米10俵を、旧例に任せて諏訪大祝へ還付せよ、そのかわり田邊郷のうち2貫文を如法院に寄進すると武田信玄がおっしゃっているのでここに伝えます、と奉行人吉田信生によって奉じられている。大祝は諏訪上社の現人神諏訪頼忠で、武田晴信のもとで諏訪社祭礼復興に尽力した人物である。なお如法寺は明治維新の廃仏毀釈で廃寺となり古文書など寺宝類は散逸している。仏像は仏法紹隆寺に安置されている。本書は県外流出文書として重要であるのみならず、武田信玄の諏訪信仰への帰依を示す貴重な文書である。 23 高井郡虫生(むしう)村の村役を勤めている野崎家に伝来した文書の一通で、元和元(1615)年の法度である。野崎家文書899点は当館準備室が平成5(1993)年に名古屋市内の古書店から購入しているが、本文書はこのなかから抜き出されていて散逸した状態で売りに出ており、所在が4半世紀以上不明であったものである。『信濃史料』22巻265頁に所収されている。飯山藩領虫生村(現野沢温泉村)百姓中あての堀丹後守直寄(ほりたんごのかみなおより)の置文である。直寄の五角形家形黒印が押されている。印文は「樋越厳印」であり、九か条の命令で、樋越十大夫が駿府在城中の直寄の意を奉じてだされた奉書である。 内容は、井水普請や城中薪取りの百姓への賦課、欠落百姓の召喚、牢人を召し荒地開鑿させる、など具体的な項目が命じられている文書である。この黒印を用いた文書は本書を含め計3通知られているのみで、初期飯山藩政の堀直寄の農政重視政策がうかがい知れる数少ない文書の一通で極めて重要な文書である。 24 本能寺の変後、北信濃へ上杉景勝が勢力を南下させてきた。その際海津城将に復帰したのが山浦(村上)景国である。阿部右京進の遺跡と所領に十五貫文を添えて給与する、鑓八丁・馬上・小籏についても以前からの掟に従って準備し軍役を勤めることが肝要である、と一筆したためている。 宛ての酒井については、天正7年に御館の乱における大場合戦で景勝方で活躍する境新左衛門が知られる。また天正14年の大室での合戦で景勝より感状をもらった酒井新左衛門が知られる。いずれも名のりから同一人物と見られ、おそらく埴科郡域の武将であっただろう。おそらく村上氏の家臣と見ることができる。 25 平氏姓を名乗る某が、六條院領千国荘安曇郡飯守・於他里両郷住人に発給した下文。内容は、両郷の住人に対して、地頭の申請や両家による御下文の旨に任せて年貢・布六十段を速やかに懈怠なく進済することを命じたものである。直接の受給者(地頭)ではなく、対象となる住人に周知する形態という鎌倉時代初期の下文に合致したもので、内容的には遜色がない。表現も、数量表記を敢えて「陸拾段」とし、書止を「以下(もってくだす)」とするなど中世前期の文書の特徴がよく出ている。 26 仙石秀久(1551~1614)・忠政(1578~1628)父子の発給文書で、佐久郡郡代の恵崎又左衛門にあてたものである。とくに秀久の文書は関ヶ原合戦前の上田城攻めに関わる文書と推定される。8月11日の文書で崎田村で敵方を捕まえたこと、10月23日の文書で井伊兵部に捕縛者を引き渡したことなどが記される。忠政の判物は、根々井・塚原といった佐久郡内の知所を恵崎へ宛がったことがうかがえる。近世初頭の佐久郡仙石治世の文書で、まとまった家文書は珍しいといえる。家の由緒に関わる重書として恵崎家でもっとも大切にされたものと思われる。いずれも1幅に納められ、肖像画が描かれている。上記の経緯から、像主は「恵崎又左衛門」と考えられる。 27 県行政文書のうち流出した関係資料を県内古書店より2019(平成31)年に購入し収蔵した。当館には昭和3年の行政文書は108冊、うち社寺兵事課のものは28点当館に収蔵されている。この資料の表紙には県庁で施されたナンバリングおよび「県政資料室」によって付された番号がそれぞれないことから、かなり早い段階で県の手を離れたものと見られる。 済南事件は、それまでの幣原喜重郎による協調外交を脱した田中義一内閣の積極外交(外務大臣田中)を象徴する山東出兵とその激突という、対大陸積極介入の象徴的事件である。この事件に介入した日本軍のうち満州に駐屯していた松本50連隊(1200名駐屯)が関わり、中国人3000名以上、日本軍26名の戦死者を出したことが知られる。死傷者のうち約6割が松本連隊の兵士であった。当時の「信濃毎日新聞」では、済南で戦死した兵士の遺骨期間の記事を連日連載するなど、日中戦争以前の長野県民にとっては、初めての「大規模海外戦闘と戦死」経験となった事件である。田中内閣が満州某重大事件の責任を取り辞任をし、済南事件も多くの戦死者を出して失敗に終わったことから、この事件についてはうやむやとなった。大正期から昭和恐慌・満州事変、日中戦争へ進んでいく時期にあたるが、『長野県史』『長野県政史』ともにこの事件についてはまったく記述がない。県の行政文書が残されていなかったことから、この事件の対応についてはよく分かっていない。 多数の戦傷死者を出した事変に対し、県民遺族に対する対応方策を明示した指示書、実際にどのような弔電や弔問がおこなわれたのか具体的に示されている。また県の通達に対し、戦死者の遺族の個人情報が自治体役場より挙達されている。県として、海外派兵によって多数の戦死者を出したというおそらく初めての事案に対して、当局の方針が実は定まっていなかったため、その「一般方策」については何度かの浄書がおこなわれた形跡も簿冊から見て取れる。十五年戦争以前の遺族の救護・見舞金支払いなどの実態が如実にわかる簿冊である。県民と戦争および行政の関わりを語る上で欠かせない戦時史料といえる。なお昭和3年当時は第16回衆議院選挙、すなわちはじめての普通選挙が実施される年であり、無産政党の活動も活発となっていた。積極外交に対する反戦運動がおこっており、近年ではこの運動に対する研究もなされている。こうした動きに対して県当局も敏感となっており、戦死者への慰撫が極めて重要になっていることもうかがえる史料である。大串潤児「済南事件と長野県ー新出史料の紹介と若干の論点の提示ー」(『長野県立歴史館研究紀要』26号、2020年)参照。 28 おなじく県庁関係行政文書を2019(平成31)年に県内古書店より購入した。「昭和二十二年四月執行選挙関係」の綴で、選挙事務分担・参議院議員選挙法並びに同法関係法令の施行に関する件・県会議員等選挙事務取扱手続・県知事の選挙を行う際の投票日時・選挙運動解説・衆議院議員候補者経歴広報掲載申請書などが合冊されている。内務省による選挙手引も同梱されている。 29 真田信之吉書。大鋒院殿御事蹟稿に掲載された吉書で寛永16(1639)年に比定されている。 真田信之はこのとき73歳である。史料は年頭の歌会で信之が詠んだ自筆の和歌である。大名の和歌が吉書として残されるのは珍しい。当館では真田氏関係の文書はなく、近世大名の文芸関係史料として展示活用できる。なおこの和歌は、室町時代の密教伝授の写本で古今和歌集の古注釈書「古今和歌集灌頂口伝」のみに掲載された和歌である。密教的な注釈書であるため、その他の古今和歌集注釈本とは異なった種類の和歌が含まれているのである。 30 この書状は、福島正則の次男忠勝の書状である。「不慮之国替」とあることから高井野藩への国替え時の文書であることがわかる。また、本文中「無事相済満足申候、次ニ太夫殿(※正則)・我等息災ニ御座候間可被心安候」と、国替えが滞りなく済み、正則・忠勝父子とも息災にしているから心配しないように、と記している。宛先の座主は、正則以来関係の深かった備後厳島神社あてとみられる。この書状は、突然の国替に際して、神社からお見舞いの久米(くめ)が送られたことに際する返書で、神前において祈祷を依頼したのである。つまり、この書状は移封先の高井野で執筆されたことが判明する。福島氏発給文書の唯一の信濃関係文書といえ、極めて貴重な文書といえる 31 高遠藩士松澤家文書。小巻子の状態で保管されている。初代高遠藩主の保科正光は天正18(1590)年、家康の関東移封により下総国多胡城主となった。その後、関ヶ原合戦では東軍に属して浜松城守備を任され、美濃川戸・萩原渡しで西軍と戦っている。この書状は正光が家臣の松澤・丸山・吉川に伝えた書状である。東軍が勝利し、西軍の大谷吉継・長束正家・島津義弘・小西行長らが討ち取られたことが報じられている。我が軍と戦った西軍の「森」は、詫び言を申したいということである。これにより天下が落ち着きを取り戻したことは喜ばしいことだ、いよいよ東国が静謐になるだろうからで安心だ、林郷(下伊那郡豊丘村)の収納は肝心なことなので申し付ける、この手紙を送ってから参るつもりである、と記している。この2ヶ月後、正光は戦功により再び高遠藩主となった。 また翌年と見られる正光の書状が添付されている。これは、松澤喜右衛門尉に扶持方壱人をつけるので、相応のものを召し使えよ、と命じている。国替えにより新たな家人を高遠で召し抱えることを命じたものである。 32 小笠原貞宗の肖像画(絹本著色・マクリ)および久留米藩士で故実家である松岡辰方の識語である。貞宗の画像は勝山藩小笠原家菩提寺開善寺や唐津藩小笠原家所蔵のものなどが知られる。本作品は束帯姿の像で、京都清水坂の長清寺所蔵のものを写したものという。 33 織田信長・信忠画像 江戸時代後期 紙本彩色画 竪38.8㎝×横54.7㎝ 総丈130.4㎝ 総見院の信長・信忠の肖像画の模本である。本作品は三井高辰の所蔵であったものと伝えられる。 34 武田信玄画像 江戸時代中期 紙本金泥彩色画 竪67.0㎝×横29.0㎝ 総丈146.0㎝ 近世後期に流行した床机に座したもの。 35 豊臣秀吉画像 江戸時代後期 紙本金泥彩色画 竪64.2㎝×横28.5㎝ 総丈151.0㎝ 秀吉像は唐冠を着した神像形式のもので、京都高台院の肖像画の模本である。太閤山常泉寺朱印 裏書大光山本圀寺日詔署名・花押あり。 36 本書は1799(寛政11)年1月刊の刷本。本文は木村蒹葭堂の著、画は蔀関月(しとみかんげつ)の筆とされる。本書は内題の通り山海の物産を記したもので、各地の名産を描いている。とくに編著者蒹葭堂は大坂の人で酒造業を家職としたことから巻1では家職での知見を活用して酒の製法が詳述されており、江戸期酒造業の実態の一こまをリアルに伝えている。 37 女子挺身隊(ていしんたい)関係綴りの行政文書である。県内古書店より令和2年度に購入した。1944(昭和19)年、女子挺身隊として神奈川県大船の三菱部隊・富山県の不二越部隊に配属された女学生が長野市教育委員会担当主事傳田精爾へ報国作業の日常業務を書翰にして送ったもので、市行政簿冊である。約20人の書翰は、担当教諭への謝辞のほか、日課などがうかがえるが、勤労意識とともに、志願に逸る、国威発揚に感化された女学生の心情が縷縷綴られている。当時の社会背景と共に、興味深い内容と言える。女子挺身隊は12歳から40歳までの日本人未婚女子を対象に軍需工場などへ強制動員する昭和19年8月の女子挺身勤労令に基づくものである。
38 徳川家康書状は県外古書店より購入した流出文書。詳細は村石正行「小笠原貞慶の信濃復帰と下条牛千代」(『武田氏研究』62号、2021年参照)
39・40 役行者御伝記図會(上・中・下)・修験行者伝記乾・乾は和本で県外古書店より購入したも
41 武田晴信書状はまったくの新出文書。『長野県立歴史館研究紀要』28号参照。
42 松平忠輝黒印状は(慶長15)年に比定される文書。 村石正行「慶長一五年の松平忠輝知行改と川中島四郡」(『信濃』74-12、2022年参照)。
45 木曽義仲合戦図屏風は実盛最期をモティーフにした1隻屏風。長谷川信秋筆。
56 旗指物はオークションにより入手した県外個人から寄贈を受けたもの。
58 昭和6年水内郡(長野市)校長会による北海道樺太視察旅行の記録 1冊(57頁)。戦前の長野市教育会主催の9日間の樺太視察旅行の記録集である。とくに日記形式になっており豊富な写真やパンフレット、切符などが添付されているため、風俗史研究でも活用できる。長野豊野ー大宮ー青森ー函館ー五稜郭ー大沼ー小樽ー札幌ー旭川ー稚内ー大泊ー豊原ー真岡ー豊原ー大泊港ー稚内ー岩見澤ー室蘭ー東輪西ー函館ー青森解散 9日間の旅程。列車食堂チラシ、青森駅、青函連絡船、小樽花園町、アイヌ、旭川駅、稚内港駅広場、樺太大泊、豊原町役場、小沼駅切符、豊原鉄道、本斗町、浅田屋列車食堂チラシほか県内古書店より購入。
59 長野県庁職員小松益美等の講演録。小松益美は1903(明治36)年に羽尾村仙石(千曲市羽尾)に生まれ、旧更級農学校を卒業後、教員として更南実科中学校に奉職、その後県庁へ就職した。戦後は林虎雄知事のもと広報課長、農政課長、県農業会議事務局長を歴任した。退職後、青木太郎中野市長に求められ、助役として2期勤めた。戸倉町公民館長も務める。当館に収集史料(寄贈 0-24)がある。(隣組ノ活動ト婦人ノ力 小松益美/山浦国久、戦時生活強化二就イテ 鈴木鳴海、戦時下に於ける保健問題 春原平八郎、一般防空に就て 竹内警部。ガリ版冊子戦時資料)。
60 県外所蔵者からの寄贈資料。
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