大井法華堂文書

詳細情報
資料No 佐久〔2〕/2-33
地域 佐久
古文書
この目録は、令和元(2019)年10月、佐久市村田の大井道也氏より寄贈された中世から近現代に至る文書4,405点である。このうち中世文書40件45通及び近世修験文書696通は「大井法華堂修験関係文書」として平成元(1989)年に佐久市有形文化財に指定されている。
 指定された文書以外にも岩村田宿・町や家政に関わる近世文書及び明治6(1873)年に修験廃止令によって帰農した大井源豊関係の近代文書(いずれも未指定、3,664通)を含んでいる。
 大井法華堂は14世紀以降約550年にわたって佐久郡岩村田に存続した本山派修験(山伏)の名称である。佐久地域の地誌を記録した吉沢好謙『四鄰譚藪』によれば、「開闢草堂」延朗の霊場を始まりとし7・8世の後、甲斐源氏小笠原氏の祖長清の子で大井荘地頭大井朝光が若宮八幡宮を創建としたのがその前身であるとする。その後鎌倉時代末の源覚法印の時代に修験の道場として確立をみたとする。「大井法華堂文書」はこの源覚の時代以後のものから成る。法華堂の前身については、詳細は不明である。
 大井法華堂開基である源覚は、正和2(1313)年卯月1日付で聖護院門跡から熊野・二所先達の補任状を授かっている。後述のようにこの文書および応安7(1374)年の補任状は形式上から偽作であると見做されるものである。法華堂は源覚(建武2年没)以降の堂主(具体的には多種の旦那職を集積した源宗の時代。村石論文参照)が、勢力を拡大していくために源覚を祖に位置づけ、修験寺院としての根拠としたらしい。
 佐久・小県地域の旦那を先達する法華堂は地域の山伏の中心であった。彼らの信仰対象は室町時代中ごろまでは熊野のみにとどまらず、伊勢・二所(箱根権現・伊豆山権現)・富士信仰など多岐に及んでいる。こうした多種の信仰を持つ旦那職(旦那株)を法華堂が手元に集積していることから、当初の法華堂先達職は、諸山の先達を兼帯するものであったのである。
 永正14(1517)年9月、聖護院門跡道増は役銭の納入を、次いで享禄元(1528)年9月13日には頭巾役を法華堂に課し、この旨を信濃国内の修験へ傳達することが命じられた。この時期には、近衛家出身の道興および道増が諸国を廻国した。特に道増は地方の修験を聖護院の傘下に収めて聖護院門跡を中心とする本山派修験による序列化を進められており、「在地修験」の一つに過ぎなかった大井法華堂および佐久地域の修験も、同様の過程を経て、聖護院門跡によって序列化され、本山派のなかに組み込まれていった。
 戦国時代には永禄11(1568)年の「武田家普請役免許状」などでも知られるように、法華堂「御屋形」(大名当主)への祈祷を命じられる対象となった。この永禄11年の文書によれば、法華堂を中心に佐久・小県の修験が一つのまとまりとして把握されたことがわかる。こののち法華堂は戦国期に佐久・小県郡の年行事に補任された。修験は佐久岩村田に3名、同郡志賀に4名、同郡平賀・内山・小田井・前田原・平原・柏木・与良・関口・上塚原・芦田・臼田にそれぞれ1名、小県郡には新張・滝原・田中にそれぞれ1名づつ、計22名が居住していた。
 12代堅栄はその没年が不明で13代源栄の間が数十年の開きがある。近世初期の堅栄・源栄の時代は真田氏の移封に伴い17世紀前半は埴科郡和合院との霞の競合があった。両寺とも東北信における修験の中核寺院として重視され、法華堂は和合院などとともに4つの年行事の一つであった。内藤氏(岩村田藩)が岩村田に入部以後は、龍雲寺・西念寺・円満寺とほぼ同格の扱いを受け、主要家臣とも密接な交渉を持った。
 また、近世修験関係文書として注目したいのが、歴代当主が吉野大峯(奈良県)へ入峯修行した際の日記が豊富に残されている点である。宝暦2(1752)年を嚆矢として、安政3(1856)年までの日記が22点残る。それらは、熊野本宮までの真の入峯修行時のものと、手前の吉野までのものがあるが、文化3(1806)年の法華堂源海の入峯は、熊野まで入った完全な入峯であった。その際の記録は、単なる行動録でなく、詩文や風景描写を含む、実に精彩に富んだものである。こうした記録は、地方修験者の修行の実態を明らかにするうえで、興味深いものである。
 明治6(1873)年維新政府の神仏分離政策の中で、大井源豊が帰農し、鎌倉時代より続く修験道大井法華堂の歴史は終わった。
 なお本目録では、文書群の構成を以下のように分類している。詳しくは小山貴子「中世後期の在地における修験道の展開と在地の信仰圏-信濃国佐久郡大井法華堂の事例から-」(『仏教史学研究』55-1、2013年)、村石正行「佐久郡岩村田大井法華堂文書について」『長野県立歴史館研究紀要』27、2021年)参照のこと。
 A  修験関係(中世文書)
  (1)大井法華堂から地域の修験者等に発せられた旦那譲状・預状
  (2)聖護院門跡・院家より発給された補任状・免許状等
  (3)16世紀の領主層から大井法華堂に宛てられた文書
  (4)その他
 本巻巻末に中世文書写真および釈文と簡単な注記を掲載している。番号は本目録A番台の数字と一致するのであわせて参照いただきたい。
 B  修験関係(近世文書)
  (1)法華堂日記(寛政8~文政12年)
  (2)経王山日記(文政5・6・13、天保13、安政5・文久2年)
  (3)御入峯日記(文化3年)
 (4)入峯道中日記(宝暦7・安永3・天明9・寛政元・同10・11・文化4・文化8年・文政2・文久年間)
  (5)(3)・(4)に関わる道中駄賃帳
  (6)役向関係
 (7)修験階級・法服関係
  (8)系図・略伝
  (9)聖護院門跡入峯につき上納帳
  (10)改帳
  (11)和合院一件
  (12)住心院御院室関係
  (13)住心院宛筆跡
  (14)勧化帳
  (15)勧進帳
  (16)補任状・免許状等・諸大名筆跡
  (17)一紙もの(寛永~宝暦)
  (18)一紙もの(享保~天明)
  (19)一紙もの(寛政~文政)
  (20)一紙もの(天保・弘化)
  (21)一紙もの(嘉永以降)
  (22)書状(京都役所発法華堂宛)
  (23)書状(他院から法華堂宛)
  (24)書状(年行事宛觸等) 
  (25)書状(雑)
  (26)書状(岩村田藩家中から法華堂宛) 
 C 古文書写集
 全24点。慶長以前の文書は巻子2点に計19通影写されている。このほか、竪帳・横帳それぞれに臨写された写がある。「添手かゝ美」・「大井氏系図」など大井氏由緒関係書目もこの分類に収めている。
 D 未指定分(近世・近現代)
 岩村田宿・町関係・大井家家政関係
 (1)岩村田町明細帳  (2)寛延元年御領分村々覺  (3)公事御触留書 
 (4)岩村田藩八田家借財関係(質地)  (5)開発関係  (6)岩村田町御手當積穀帳 
 (7)殿様御任邑之節扣  (8)取立人別帳  (9)博打等出入関係 
 (10)農業出情人取調帳   (11)西念寺・龍雲寺関係  (12)町政・藩財政 
 (13)諸役  (14)法華堂所持土地関係  (15)天保・嘉永・安政手扣  (16)穀物払帳 
 (17)金融関係  (18)貸金證文  (19)貸金證文控  (20)質地證文・土地売買證文 
 (21)損毛・不作関係  (22)大井家一紙もの  (23)法華堂隠居随情院遺言書 
 (24)四鄰譚藪  (25)通い帳  (26)大井百助家持覚帳  (27)大井園右衛門新宅関係 
 (28)家財整理
 近代家文書(大井家地主関係文書)
 (1)村上藩関係(逗留関係)  (2)法華堂皆濟目録(明治6年まで)
 (3)明治以後大井家租税納付請取  (4)地券  (5)大井家小作籾取立帳 
 (6)大井源豊日記類(明治7・9・11・12年)  (7)雑記類 
 (8)養蚕蚕種関係(日誌・得意帳)  (9)借用金證文  (10)無尽 
 (11)明治以後雑(東山道鎮撫総督等)  (12)目録(所有書籍・家財目録) 
 (13)法華堂絵図類(家相図・屋敷図・田畑図)  (14)写本等 
 (15)長野縣職員録
 当館では、岩村田宿問屋依田家文書を収蔵している。とくに大井法華堂との日常のやりとり、絵図面など関連する史料も含まれるため、参照されたい。
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