安曇郡白金村望月家文書

詳細情報
資料No 安筑〔5〕/5-64
地域 安筑
古文書

 本目録は、2017(平成29)年に上條信彦氏より寄託を受けた収集史資料群のうち、標記文書2,878点を収録する。これらは県外古書店で売り立てられていたものを逐次購入したものである。なかには中山道本山宿で望月忠蔵が助郷役負担のために滞在している折に宛てられたものがまとまって売られていたとおぼしく、そのため当館へは本山宿関係文書として寄託されていたものも含まれるが、望月家文書としてまとめて整理を施した。 
 安曇郡白金村(安曇野市穂高白金)は、同郡矢原と等々力との中間に位置し、烏川の扇端にあり、犀川の旧河床を流路とする中曽根川の自然堤防上に立地した後背湿地の近世村である。江戸時代を通じて支配関係は松本藩領であり、近世初頭は仁科中筋、その後は保高組に属した。村高は「慶長改帳」では190石、「元禄郷帳」では145石余り、「天保郷帳」によれば204石余りである。とくに穂高川・犀川流域の近隣村同様、鮭役が賦課されていた事が特徴である。
 明治4(1871)年に松本県を経て筑摩県に所属、明治7(1874)年に東穂高村、大正10(1921)年穂高町となり、現在安曇野市の一部となった。
 当該文書群は幕末から明治初期の書簡、取引関係帳簿類を多く含む。望月家は江戸時代の庄屋で、このうち書簡は喜代蔵および忠蔵に宛てた文書が多い。忠蔵は文政9(1826)年から明治28(1895)年に活動した人物で、庄屋ののち、維新後は東穂高村戸長を勤めている。器械製糸を取り入れ、明治10年株式会社製産社を設立し、生糸の横浜への販賣を進めている。このほか、刻み煙草の生産・販売、会所の設立に関わる文書も含まれている。文芸的には、廃仏毀釈で被害のあった栗尾山満願寺の再興も地域の名望家の一人として携わっている。
 また文化13(1816)年から大正2(1913)年にかけての81点の伊勢暦が断続的に残されている。農事暦が大切だった前近代では、こうした印刷された暦が地域の中に広く浸透していた事をうかがわせる。

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