本目録に収録した標記文書は、2017(平成29)年度に上條信彦氏より寄託を受けた収集史資料群のうちの一部で、流出点数が1点もしくは10点程度の伊那郡関係文書を便宜的に収めている。したがってそれぞれの出所(古書店等)が異なることに注意が必要である。 本目録には大萱村(伊那市)・伊豆木村(飯田市)・宮木村(上伊那郡辰野町)・上飯田村(飯田市)・日影村(伊那市)・八手村(伊那市)・北小河内村(上伊那郡箕輪町)・中坪村(伊那市)の計8ヶ村文書の他、「伊那郡郷村旧事記」4冊、中山道運送会社関係資料がある。 このうち比較的数量のあるのは中坪村文書で、19世紀前半の文書を中心とした24点で構成される。支配関係は幕府領で、天保期の村高は584石であった。内容は年紀売証文、譲り状、金子借用状など私文書の他、村役人から飯田藩役所への願書なども散見される。 大萱村は、幕府領・飯田藩領・幕府領と支配関係は転変する。本文書群9冊は幕府領時代のもので、代官所からの公用文の写を村役人が書き留めた横帳がまとまっている。 興味深いものとして、中山道運送会社関係資料がある。明治初頭の陸運資料として珍しいものといえるが、石曽根村(上伊那郡飯島町)唐沢忠蔵正容など小売業者の印判と実名が一覧できる。 このほか上片桐村(上伊那郡中川村)名主藤左衛門、片桐村片桐村前沢本耕地(同村)の名主伊兵衛関係の文書が比較的残っている。 133号から144号文書は伊那郡境村関係文書である。境村は三峰川右岸の台地上にあり、日影村を本郷とする伊那部村の枝村である。現在の伊那市西部の地域にあたる。端裏書からこれらの文書の出所が池上代治のもとにあったものとわかり、池上家文書と名称することができる。ほとんどが江戸時代後期の年貢免状であるが、144号文書は羽広村源八が境村仙右衛門を相手取って起こした訴状である。 145号文書以下は長野原村文書庄屋「丸の屋」文書である。借用証文のほか、伝馬関係の割付帳が目立っている。長野原村は近世飯田藩領で、寛文年間に駄科村の一部が分村し長野原新田村として成立した。村高は約260石という。本史料は『竜丘村誌』(1968年)で整理された痕跡が残る。 185号から325号文書は小川村文書を収める。小川村は元禄年間に1086石程度、天保年間には1307石余りの村高である。山林資源に恵まれた榑木成の天領の村である。おもに質地証文、土地売買証文が多くを占める。隣村の虎岩・知久・栢原との境界争いおよび薪山の入会地についての裁許関係の写を含む。 326~434号は伊豆木村・立石村・龍口村・日影村文書などを中心に収めている。いずれも幕末から明治初期にかけての文書である。 伊豆木村は中世の伊賀良荘(飯田市育良)のうちで、江戸時代は1000石が旗本小笠原家領で北伊豆木村と称した。残り300石は飯田藩領となり1672(寛文12)年からは幕府領、さらに1682(天和元)年美濃高須藩領となった。これを南伊豆木村という。高須藩陣屋は竹佐村(飯田市竹佐)にあり、陣屋宛の文書も数点残っている。 伊豆木隣村の立石村は旗本近藤氏領であり1647(正保4)年には515石であった。古刹真言宗立石寺は平安時代中期の創立と伝えられる。1501(文亀元)年紀の梵鐘は三河国引佐郡安楽寺より搬入と記されているように、三州との関わりが深い地域である。 龍口(たつのくち)村は現在の高森町にあたる。村高は江戸時代を通じて410石で大半が座光寺氏領で、残りはのちに上平村に組み込まれていった。 これらの村文書で興味深いのは、送籍状が複数含まれている点で、飯田県(藩)だけでなく筑摩県・名古屋県・三河碧海郡・美濃岩村県・高須県など複数の支配所間の送付状が目につく。これは下伊那地域が飯田藩だけでなく複数の旗本領が存在し複数の支配関係が入り組んでいたことを示すものである。
436号文書からは伊那郡市場村下條家文書を掲載した。市場村は現在の下伊那郡泰阜村にあたる。村高は41石であった。いずれも近世後期の年貢勘定帳および名寄帳など肝煎喜多右衛門・市兵衛時代の横帳である。 |