水内郡鬼無里村市野瀬組文書

詳細情報
資料No 水内〔9〕/9-36 
地域 水内
古文書

 この資料群は平成29年度に県外古書店より購入した文書76点である。多くは市野瀬村(組)関係分が多いが、すでに原秩序は崩されており、また双方が関連する内容を含んでいるため一括して目録に掲載した。
鬼無里村(現長野市鬼無里)は東は戸隠村(現長野市)、南は小川村や中条村(現長野市)、西は北安曇郡小谷村・白馬村と接する中山間地域である。また北は越後国頸城郡(現新潟県妙高市)と接する国境の村である。戸隠山を霊山とした信仰の地として知られ、「戸隠山顕光寺流記」には「木那佐」として記された神領であった。鬼無里自体の表記は「鬼無里筋之路次」として「武田晴信書状」に見えるが(弘治3年カ「武田晴信書状」、「弥富文書」)、鬼無里村は村名としては1602(慶長7)年「川中島四郡検地打立帳」に見えるのが初見で、1314石余りの村高が記録されている大村である。したがって江戸時代中ごろには枝村が分立し、61ヶ村を数えたという(元禄松代領高辻帳、「大日方文書」)。市野瀬村はこの枝村のうちの一つである。
鬼無里村は下新倉・上新倉・松原・町・東京・小鬼無里・高橋・下俣・山内・平の10組に分けられ、それぞれに組頭がおかれた。生業の多くは畑地稼ぎで、麻及び麻糸加工のほか、木炭焼きも見られる。
 本目録に収載した文書のいずれも、土地権利の移譲にともなう1紙の証文類であるが、地域的な特徴もかいま見える。第一は、鬼無里村は大村のため組支配がおこなわれており各組頭を村名主が統括していたが、本史料群から見えるように、佐藤氏などの名主は苗字を帯びることが許されていたことがわかる。この地域では珍しい慣行である。第2に、証文類は炭焼き山・麻畑・萱場等の売買・質入が多くを占めており田地売買の痕跡を見ることはできない。山野の村人の生業の様子を端的に示すものといえる。
なお文書群は1724(享保9)年が最古で、18世紀後半に証文類が比較的集中していることから、土地集積がこの時期進展したことがうかがえる。鬼無里村ではこの時期割元制度が設置され、枝村の名主を統括し年貢収受をおこなう大庄屋の役割をする割元が置かれる時期に重なる。質地地主としての当該地域の有力農民層の動向の一端が本史料群から解明されることが期待される。

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