古文書 |
本目録に収録した標記文書は、2010(平成22)年に上條信彦氏より寄託を受けた収集史資料群のうちの21通である。近世文書分は八郎左衛門関係の文書を残している。 森村(千曲市)は正保期1,259石余り、天保期1,389石余りの石高で、旧更埴市域では本八幡・雨宮・矢代につぐ大村である。支配は一貫して松代藩領である。 森村は南北両組から成り立っており、各組より名主・組頭・長百姓を選出して、6人体制で村運営をおこなっている。この6人体制は森村のほか倉科・矢代・雨宮各村も同様である。松代藩では江戸時代中期以降、入札により名主が選出されていたようである。またこの6人の他に森村には「頭立」と呼ばれる村方三役の補助をする役もいる。 文化・文政期、森村の名主になった者に中條唯七郎弼明がいる。唯七郎の残した『見聞集録』は江戸時代後期の地域文化、村政、幕府動向に関わる私見など多岐にわたる著述で、近世庶民生活史を語る上で貴重なものとして位置づけられている(青木美智男監修『近世信濃庶民生活誌』ゆまに書房、2007年)。弼明は1773(安永2)年に生まれるが、幼い頃には両親と死別し祖父武右衛門家隆および叔父によって養育された。この叔父こそが家督を継いだ八郎左衛門である。八郎左衛門が中条本家の家督を継いだときはすでに「家禄既に衰亡ニ及ばん危急」の状態になっていたが、八郎左衛門は1797(寛政9)年から酒造業を開始し全盛期は酒造業ほか呉服小間物をあつかう商いをおこなった。さらに1803(享和3)年には採桑法の改良を試み、上野国より糸引き師を招くなど地域に養蚕業を根付かせようと多角化経営をおこない成功を収めた。しかし1817(文化14)年に2,200両の借金を抱え家産は破綻した。分家していた唯七郎が叔父に代わり再興に尽力した結果、本家は立ち直ったという。 本文書群にも、叔父八郎左衛門に対し、唯七郎が土蔵・家財一式を預かる旨の証文が残されており、家督継承していることがみてとれる。また八郎左衛門が酒造経営をしていること、立ちゆかなくなって売却していること(7-55-2など)がわかる。 当館には同村中澤家文書(7-43)・近藤家文書(7-48)も当館に収蔵されている。森村関係だけで8000点近くの地方文書が収蔵されている。今後これらを調査することで、村役同士の交流など村落内のミクロの歴史解明が期待されるだろう。また、唯七郎関係資料を補うものとして活用が期待される。 |