古文書 |
本目録は、2017(平成29)年度に上條信彦氏より追加寄託を受けた収集史資料群のうちの標記文書147件、169点を掲載する。 史料の内訳は秋和村(上田市秋和)工藤家に伝来した文書である。秋和の地名は戦国時代に遡り、「高白斉記」1553(天文22)年条に「真田子在府ニ付テハ秋和三百五十貫之地真田方ヘ被遣」とある。また諏訪下社春秋宮造宮次第には下社春宮の造営役を負担している(1578 天正6年)。近世を通じて支配関係は上田藩領で、「元和石高帳」で1,111石、「元禄郷帳」では1,156石を数える。近代には塩尻村を経て1954(昭和29)年から上田市の地名となった。 概略については、近世文書の多くは19世紀前半から幕末の貸借関係文書が多い。近隣の諏訪部村や海野町との関係が見える。宛は工藤佐蔵、ついで明治になり同太仲のものがほとんどである。とくに近代史料は太仲に関するものが過半である。 近代文書の特徴は、信仰関係とくに富士信仰関係のものが目につくことであろう。このなかには「食行身録□菩薩(じきぎょうみろくくうぼさつ)」関係史料が数点ある。食行身録は富士講の第六世で、中興の祖と言われる人物である。食行身禄が「弥勒の世の到来」を告げ、1733(享保18)年に富士山の烏帽子岩で断食入定を始めたこと、その後即身仏になり、江戸を中心に富士講がクローズアップされた。弟子の田辺十郎右衛門らに与えた「三十一日之巻」の写、食行身禄の行状記などがある。工藤太仲はこの富士信仰の信者であったらしく、1852(嘉永5)年には全国の神社を参詣し御朱印を拝領した際の朱印帳もある。この旅程の際、関所や村々を無事通行できるように、藩の役人の手形をもって行った。病気になれば、近国では在村へ飛脚で知らせ、遠国の場合はその土地の領主を通じて江戸の藩役場へつないでほしい、と記す。この手形も冊子に貼り合わせ1冊の堂々とした朱印帳としている。その名前は「願主 行者工藤太仲」とある。近代になり このほか太仲は、醍醐寺理性院門跡の行雅(還俗して徳大寺莞爾)の書簡や折紙を所持している。徳大寺莞爾は不二道(江戸時代の富士講が近代になって分裂し、このうち食行身禄の系統を継いだ教派神道)の教祖にまつられていることから、太仲が不二道信者であったことを示す資料といえる。 信濃国では富士講関係は飯田藩松下家文書が知られる。本文書群は、長野県内でも数少ない関係資料として貴重といえるだろう。
※□は人偏に杓。 |