斎藤家文書
資料No | 水内〔9〕/9-4 |
---|---|
地域 | 水内 |
古文書 | 本目録に収録した斎藤家文書は、長野県立歴史館準備室が平成6年(1994)9月に長野市吉田の斎藤誠氏から寄託を受けた文書である。水内郡西大滝村(飯山市西大滝)の村役人を勤めた斎藤家所蔵の文書で、本目録は飯山市が市誌編纂の過程で作成した分類基準・整理番号のままとした。文書の作成年代は寛永4年(1627)から大正3年(1914)までの長期におよんでいる。 西大滝村は江戸時代の初期は桧代藩領で、その後は飯山藩領になり、享保2年(1717)からは幕府領となった。村高は元禄郷帳で103石余、天保郷帳で317石余であった。幕府領時代は、おもに中野陣屋の支配を受けたが、後期には一時期、越後国の脇野町陣屋、川浦陣屋の支配を受けたこともある。明治元年(1868)から伊那県、同3年には中野県、同4年以降は長野県に所属し、同9年に照岡村の一部となった。 斎藤家は長く村役人を勤めたために、村政関係の史料が大半を占めている。寛永4年から幕末までの年貢割付状、年貢皆済状が数多く残り、慶安5年(1652)に飯山藩が実施した領内総検地の検地帳をはじめ、寛文、元禄、安永の新田検地帳がそろっている。宝暦4年(1754)から幕末までの宗門人別改帳から村の戸口が、天明2年(1782)以降の22冊の御用留からは幕府の触れが詳しく知られる。慶応4年(1868)の戊辰(北越)戟争では、谷道筋の西大滝村が越後へ向かう官軍の経路になったため、村の対応などをこまかに記した史料も多い。 家政関係では、同家が江戸時代の中期以降に千曲川の通船稼ぎを営んだため、その史料が多い。寛政2年(1790)に斎藤家先代の太左衛門は、西大滝村と高井郡福島宿(須坂市福島)間の通船を幕府から認可された。その後幕末まで、松代藩川船や厚蓮(善光寺町商人)船と競合しながら太左衛門船が就航した。斎藤家は明治期には通船会社を設立して営業を続けた。千曲川通船関係の史料には、八田家文書(松代町商人・国文学資料館史料館所蔵)、西澤家文書(川田宿問屋・西澤健吉氏蔵)、柳島家文書(丹波島宿問屋・長野市立博物館蔵)、一般文書(県立長野図書館移管文書・長野県立歴史館所蔵)などがある。 |
収蔵データ検索 | 資料検索 |