川田宿西沢家文書
資料No | 高井〔8〕/8-13 |
---|---|
地域 | 高井 |
古文書 | 本目録に収録した川田宿西沢家文書は、長野県立歴史館が平成15年(2003)に寄託を受けた史料である。 点数は3,571点で、このうち年代がわかるものは慶長16年(1611)から平成6年までの文書1,830点、年代が不明の文書は1,741点ある。近世及び近現代の文書である。 本史料は西沢家に伝来してきた文書である。近世、西沢家は川田宿で本陣と問屋を務めた。本陣・問屋関係文書として、人馬継ぎ立てに関する史料や諸荷物に関わる訴訟、主に脇道継ぎ送りに関わる訴訟文書が多く残る。また、文化14年(1817)に本陣の屋根の修復が行われ、このとき牛嶋村他隣村が人足を出している記録が見られる。 川田宿は、千曲川の川岸に位置し、度々洪水の被害を受けている。本文書群の中にも、元文年間の洪水により宿場の移転を行った関係史料がいくつかみられる。 他には、千曲川通船に関わる史料がまとまって存在する。寛延2年(1749)に、水内郡問御所村治左衛門他3名が通船願いを提出したことに対して、宿駅の損失となるとの理由で、隣宿(福島宿・丹波島宿・欠代宿)と共に通船反対を返答した文書が残る。しかし、寛政2年(1790)には西大滝村太左衛門が通船の許可を受け、さらに文政4年(1821)には松代藩営の川船が通るなど、千曲川通船の発展に伴い、西沢家は、通船稼ぎに積極的に関わっていくようになる。これら関係史料が多く残る。千曲川通船史において、貴重な史料群であるといえる。 明治初期、西沢家は副戸長を務めた。各種廻華や雛形の類まで、関係史料がまとまって残っている。明治30年代には、西沢又右衛門は六十三銀行の本店支配人を務め、これらに関わる諸文書もいくつか残る。 なお、西沢家の当主は、近世より近代初期まで又右衛門を名乗っている。また、川田宿が度々洪水の被害を受けていることは先に記した通りであるが、このため、現存する史料の中に汚れ、破損、劣化等がみられる文書も多いので、扱いに注意が必要である。 |
収蔵データ検索 | 資料検索 |