松代藩郡奉行成沢家文書
資料No | 更埴〔7〕/7-47 |
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地域 | 更埴 |
古文書 | 本目録は、2018(平成30)年に135点、および2019年に49点の古文書を県外古書店より購入し目録化したものである。 成沢家は松代藩家中で、先代成沢勘左衛門が郡奉行とともに勘定吟味御勝手向に兼任されたのが1757(宝暦7)年であった。勘定吟味御勝手向は江戸詰および松代在勤の交代勤務で経費管理をおこなう役目であった。各役所に出向き「無遠慮」「不意ニ見廻り」し管理監督・指示督励をおこなっている。出向く役所は勘定所・勘定吟味役所・御膳所・御次向、御茶道詰所・御普請所・川除普請所などである。 本史料群に収められる成沢勘左衛門は前記の子孫で1860(安政7)年より町奉行職、1863(文久3)年より郡奉行を勤めている。郡奉行は領内農村・農民支配の中心となった職で、収納方・公事方の職務を分掌した。またその下の代官・手代が実務を担当した。 なお成沢勘左衛門家の知行高は「明暦3年分限帳」では214石5斗、維新後の持高は「明治4年給禄適宜現石高」では21石5斗4升である。 史料のなかには八町村(須坂市)や三輪村(長野市)の訴訟関係の帳簿が数点確認され、郡奉行時の職にかかわる文書であることがわかる。そのほか注目すべき史料は多くの書状にみられる。年次は不明であるが、「会津落城」(7-47-61-6)、「甲州在陣」(7-47-18)「御東幸」(7-47-25)などが見られることから戊辰戦争期のものと推測される。 また、郡奉行時の勘左右衛門の日記は文久3年・1867(慶應3)年・1865(元治2)年、維新後の1869(明治2)年のものが残る。1813(文化10)年の成沢公直による「大手御番所日記」、また年次は不明であるが「御在城年勤方出役日記」がある。いずれもこれまで知られていない史料群であり、松代藩郡奉行の職制を知る手がかりとなるものとして今後注意が必要であろう。 また、7-46-64~94までのまとまりは2019(平成31)年に購入したものである。宝暦期の松代藩勝手向御用兼帯の恩田木工民親やその妻の弟望月治部左衛門、祢津要左衛門など藩重臣などによる登城召喚状がまとまっている。登城の際の麻上下着用なども見て取れる。No.88番からは1762(宝暦12)年に勘左衛門が郡奉行に役替になったことがわかる。なおこれらの多くには付箋と上書が貼付されており、書き込みからこの時の勘左衛門の実名は直効、直効の嫡子が市郎治であることがわかる。 |
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