更級郡鹿谷村文書(松代藩領名主文書)

詳細情報
資料No 更埴〔7〕/7-4
目録巻数 13
地域 更埴
古文書  鹿谷村(現長野市)の村方文書で、782点のうち判明する年代が慶長7年(1602)から明治35年(1902)に及ぶ近世から近代にわたる文書群。長野県教育委員会(長野県立歴史館準備室)が平成5年(1993)に購入した史料。
 鹿谷村は犀川支流の当信川と柳久保川の間に位置し、当信川筋の西を本鹿谷村、柳久保川筋の東を外鹿谷村とする。元和8年(1622)に松代藩領となり、以後幕末まで続く。万治3年(1660)には蔵入地と11人の地頭知行所による支配が行われている。村高は慶長7年の川中島四郡検地打立之帳に426石8斗7合とあり、正保4年(1647)の正保御書上、元禄15年12月(1703)の郷帳にも同高と記される。明治元年(1868)の旧高旧領取調帳では486石余とされている。明治8年(1875)5月の鹿谷村戸数は本鹿谷村144戸、外鹿谷村93戸で、翌明治9年に本鹿谷村と外鹿谷村を併せて信級村となった。その後、昭和30年(1955年)に上水内郡新町と合併して上水内郡信州新町となり、平成22年(2010年)に長野市へと編入され現在にいたっている。
 近隣の村とともに麻作地帯で、この地域では作付けが最も多く、麻織物、蚊帳、畳糸、細引などを生産した。本史料には、年貢・小役勘定目録など貢租・課役関係文書が多くみられる。そのほか有地改・潰・借財人別関係文書、社倉関係文書、弘化大地震関係文書など山村の経済・社会生活の実態を示す史料が含まれている。
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