古文書 |
本目録に収録した標記文書は、2017(平成29)年度に上條信彦氏より寄託を受けた収集史資料群のうちの一部で、流出点数が1点もしくは数点の筑摩・安曇両郡関係文書を便宜的に収めている。したがってそれぞれの出所(古書店等)が異なることに注意が必要である。 このうち寿村(松本市)は村図(明治中期)が残る(5-58-5)。寿村は1889(明治22)年4月、町村制の施行により、豊丘村・小赤村・白瀬渕村の区域をもって発足し、1954(昭和29)年8月1日に松本市に編入されている。この史料は製図師松前一声による図面である。松前氏についてはその経歴はあきらかにできない。 麻績村関係は、土地関係帳簿の写が若林方昌によって残されている。 5-58-2は笹部村・北栗林村(松本市)の境相論の調停書である。 また安曇郡石坂村(現北安曇郡小谷村)に関わる絵図が断簡で複数残っている。おもには近代の耕地図であるが一部近世絵図も含まれている。 高出組(筑摩郡)・上野組(安曇郡)など松本藩領の組体制関係文書が散見される。 なお5-58-51~65の北境村(東筑摩郡朝日村)関係文書については、一部近江国賀太山村(近江八幡市)石田氏所持の文書が混入していることに注意が必要である。前述のように本史料群が購入資料のため、北境村文書との関係は不明であるが、分割せずにこの目録に収めた。 5-58-68~102は筑摩郡安坂村(東筑摩郡筑北村)山間関森家文書を収める。明治初期~大正期の当主の日記や大寶恵(おぼえ、大福帳)が比較的まとまっている。また楮紙の購入控えなど幕末の中山間地の紙消費について資する史料もある。 5-58-103からは松本藩領筑摩郡御立野村(おたつのむら、東筑摩郡生坂村)文書を掲載する。1801(享和元)年山方小前百姓が里方の樹木伐採をおこなったことで起こった山論に関する史料が見られる。 5-58-121からは安曇郡長尾組(安曇野市三郷)関係の文書を収める。上長尾・下長尾村は長尾村が1728(享保13)年分村して形成された。このときの村高は上長尾575石、下長尾362石であった。同組二木村は小笠原氏家臣二木氏の本貫地で、正保年間には1,261石の大村であった。ここも分村し一日市場・七日市場各村を枝村とした。本文書群には慶安期の竿帳写があり、古い当村の検地帳として貴重である。このほか宗門送一札、尋人廻状などがある。宛所の多くは二木村覚兵衛で庄屋を務めている。 156からは筑摩郡寿村(松本市寿)藤森家文書を収載する。小作證書は同村および近隣諸村小作人によるものが多数を占める。また借用証書など、近代藤森家の寄生地主制の一端をうかがえる。 230からは大町組閏田村文書を収載する。閏田村は現在の大町市社の字名である。隣村の木舟村・曽根原村との相論のほか、大日堂建立の際の金銭割付帳が見える。閏田は文禄年間には109石の村高があり、仁科神明宮神田を名称の由来とする。 238からは別所村および荻新田村関川家文書を載せる。別所村は現在の東筑摩郡筑北村に位置し、1629(寛永6)年仁熊村より分村した山間村であり、荻新田村はその枝村である。当初は松本藩会田組、のち坂北組に属し、幕府領となった。村高は1724(享保9)年142石であった。荻新田は1652(慶安5)年に別所村より分かれたが、村高はわずか5.5石の新田村である。村役を務めた関川氏の文書であるが多くは幕末の重蔵関係のものである。質置証文・譲り状のほか、書状関係では大津宿の女房2名を連れて帰国した際の顛末を記す文書252・255号文書が興味深い。 |