筑摩郡会田宿本陣横内家文書
資料No | 安筑〔5〕/5-17 |
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目録巻数 | 10 |
地域 | 安筑 |
古文書 | 本目録に収録した筑摩郡会田宿本陣横内家文書は、長野県立歴史館が2004年(平成16)に寄贈を受けたものである。 会田宿は、犀川支流の会田川の中流域に転換する会田町村の中に設けられた北国酉街道の宿場である。中世は、会田氏の居館がおかれ、その城下町あたる部分が慶長19(1615)年松本藩より正式な宿場として認められ成立した。しかし、宿場の整備が完了したのは約100年後の享保年間であった。文久3(1863)年の家数は117軒、本陣・脇本陣の他に旅籠 14軒、木賃宿4軒、茶屋3軒、牛馬宿3軒、馬稼23軒であった。会田宿のある会田町村の天保郷帳による村高は、759石である。享保10(1725)年までは松本藩領、それ以後幕府領となり明治維新をむかえた。明治8(1875)年に会田村の一部となり、昭和30(1955)年近隣の3ケ村と合併し四賀村となり、平成17年松本市の一部となった。 本文書は、会田宿の本陣をつとめた横内家に伝来してきた文書である。文書の年代は慶安5(1652)年から明治41(1908)年におよぶが、19世紀のもの数が多い。宿場に関わる文書としては、天保年間の浅間村(浅間温泉)との争論の文書がまとまっており、宿場と新興の温泉場との利害の対立を知ることができる。また、犀川通船、中馬に関する文書もみられる。松本藩時代の′文書では、宝永年間の組手代後役に関する願書もみられ、水野氏時代の組手代のあり方もかいまみることができる。私文書では、借用証文や土地証文の数が多く、地域での本陣のあり方をしることができる。明治前後からは蚕種に関する文書もいくつかみられ、筑北地域での蚕種の流通の-端も知ることができる。 |
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