本文書の出所は明らかでないが、上諏訪町で酒造業を営んでいた松村家の史料であるとされる。 本文書の点数は81点で、この内年代がわかるものは、寛政6年(1794)から明治6年(1873)までの36点、残り45点は年代不明である。近世後期から明治初期の文書群である。 近世、松村家の人物として、五右衛門・孫右衛門の2人の名前が文書の出所にみられる。このうち天保期の前半までは五右衛門の名前が、後半からは孫右衛門の名前が、酒造等に関わる嘆願書・請書の作成者として登場する。資料からも、諏訪の城下町で酒造業に関わっていた松村家の文書とであると考えられる。 諏訪市誌によれば、当時、諏訪には酒造株が13株あり、松村家はそのひとつを所持していた。屋号は和泉屋である。高島藩では、城下町商業を保護する目的で、在方における酒造業を禁止していた。文政10年(1827)には、在方の者が酒造をしたい場合は城下町へ移るようにという触れを出している。松村家では、明治4年に酒造株制度が廃止されるまで酒造株を所持していた。しかし本史料群には、天保4年(1833)から6年間、西山田村儀三郎に家屋敷及び酒造の権利を貸し渡すことを記した文書があり、その経営状況は厳しく、資金繰りに苦慮していた様子がわかる。 この他、醤油醸造業に関する文書もみられる。文化12年(1815)、和泉屋五右衛門他3名が、高島藩に醤油株を認めるように申請をしている。年間15両の冥加金を支払い、新株は発行しないという取り決めが行われたようである。しかし、安政3年(1856)には、有賀村の石原松左衛門が醤油造をはじめ、さらに冥加金が15両から1貫文に減らされたために、同業者が増えることを危惧して嘆願書を出している。在方で諸商売が繁栄していくことを心配する城下町の者は、安政年間に連名で何度も嘆願書を提出している。この資料も本文書群に存在する。城下町の酒造業および醤油造業の様子をうかがい知ることができる史料である。 |