この資料群には栗岩英治(1878〜1946)が長野県史(信濃史料)編纂に際して作成した調査記録、および自ら執筆した原稿の写、書簡類が含まれる。戦後、信濃史料刊行会・長野県史刊行会で保管されてきたが、県立歴史館開館に伴い当館へ移管された。なお栗岩の遺族奥山小枝子氏より寄贈された晩年の日記1冊も便宜的にここに納めている。 本資料群を分類すると次の4点になる。 (1)昭和4年より開始された長野県史編纂に伴い、栗岩により筆写された史料草稿・目録。 調査復命や出張起案関係など公文書の一部。 (2)栗岩が執筆した雑誌『信濃』(第一次)、『大日』等の記事の写あるいは雑誌原本。 (3)栗岩の学位請求論文(『信濃上代史序説』)の草稿および米山一政氏による浄書本。 (4)各種論文を筆写したもの、および論文(講演も含む)構想のメモ類。 このほか栗岩英治の遺影となった写真1葉が含まれている。 本資料群は昭和初期・戦中時のものを大部分とし、酸性紙の料紙を使用しているため傷んでいるものも多い。閲覧にあたっては注意が必要である。そのため利用に当たっては事前申請を原則とする。
【栗岩英治】 栗岩は下水内郡外様村顔戸(飯山市)の出身の歴史研究者である。 青年時代の栗岩は自由民権運動が活発だった外様村の地域性に影響を受けている。1902年(明治35)に政教社同人となり「日本及日本人」に投稿するなど政治活動へ関心を深める。1920年(大正9)には憲政会から衆議院議員に立候補(落選)し、「木更津新聞」主筆・「長野新聞」編集長など新聞記者としても活躍する。事業家としての側面ももち、北海道や樺太の開拓事業などをおこなった。 歴史への関心は青年時代、郷里の北沢量平や足立幸太郎といった人びとや、東京帝大の坪井正五郎、鳥井龍蔵などの学者との交流による影響であり、考古学とくに北東アジアのなかの日本という広い視野を持つ歴史観を持つに至った。 栗岩は1929年(昭和4)長野県史編纂会が立ち上がると、その専任委員に任命された。以降県内外の史料を集め、『信濃史料』刊行の基礎を作った。さらに教員対象の信濃講座を主催し1930年(昭和5)から1938年(昭和13)まで継続して臨地指導に当たった。1932年(昭和7)から雑誌『信濃』(第1次)を町田礼助とともに発刊している。 1941年(昭和16)に信濃史料刊行は中断したが、その後執筆や史料収集活動は続けられた。1943年(昭和18)脳卒中で倒れたが資料調査への意欲は失われなかった。 1946年夏の下水内教育会主催の踏査には次男にリヤカーを引かせて行ったが、その1週間後に亡くなった。奥山氏より寄贈された日記はこの没年時の絶筆となる日記である。 没後、栗岩愛用の鞄の中には『信濃史料』第1巻に入る予定だった『信濃上代史序説』の草稿のみが残されており、信濃史料刊行会へ引き継がれた。 |