古文書公開日記82 原伊市のスケッチと有明の開拓
久しぶりの投稿です!
原伊市氏は、1906(明治39)年に現在の茅野市玉川に生まれました。大河原堰土地改良、霧ヶ峰・蓼科開発、ビーナスライン等林道建設、ゴルフ場開発計画等々に対する自然保護活動をおこなってきました。茅野市市会議員も務めています。また油絵画家でもあり、戦前諏訪の画家五味保らが立ち上げた羊壺会の絵画展にも油彩画を出品しています。伊市氏は97歳で没しています。
さて原伊市氏は1945(昭和20)年に召集令状(いわゆる赤紙)が来て、第50松本連隊に入隊しました。そして4月より南安曇郡有明廠舎(安曇野市穂高)に駐留しています。6月3日からは有明国民学校の教室を宿舎としていました。このとき、伊市氏が描いたスケッチブックが残されており、最近追加で寄贈された資料の中に含まれていました。ノート1行の欄に2行ずつザラ紙に細字で記しています。
伊市氏は四個分隊の轟小隊に属していました。一分隊は22名、そのうち19名が朝鮮半島出身者でした。当時朝鮮は日本の植民地でした。宗主国によって徴用されて日本に渡ってきたのです。彼らは日本の姓名に変更させられていました。
分隊の仕事は、食糧自給のための開墾作業と豆・いもなどの植え付けが主たるものだったそうです。いわば農耕隊でした。後年伊市氏は、駐屯中、国民学校の教師からシェークスピア全集を借り受けたり、新聞を生徒に読ませてもらったりと、地域住民との交流を述べています。
このなかで朝鮮出身者との交流も回想されています。
開墾地で焚火をしたとき、空腹を訴える朝鮮青年たちを不憫に思って、伊市氏は本来蒔くための豆を、そっと豆俵から取り出し水筒に入れて焚火にくべました。すると煎り豆ができるのです。これでいっとき空腹が満たされたのですが、上官に見つかると叱られるので、すぐ止めたといいます。彼らは「原さんの家に行って働きたい」とか「一緒に朝鮮へ行こう」ということも言っていたといいます。
また、朝鮮出身の上官(日本名:山本軍曹)からは、開墾地への行き帰りの道中、「ドイツ戦没学生の手紙」など文学の話や、お互いの家の話をしたということです。
「五・十九昼食。B29二個所爆撃す」
八月十五日の記録を見てみましょう。
「お昼だ。朝教練。空襲警報で退避。そのあと休養。午後眠つているとHにおこされて日本の無条件降伏のニュースを聞く。悲劇遂に大団円となつた。しかして今後どうなるだらう(だろう)と誰もが暗澹となって了つた。歩兵交替の時有明山へ落ちる入り日を見た」
敗戦後、分隊は「自治第三勤労隊」と名称を変えていますが、相変わらず開墾の生活だったようです。このころの日記には朝鮮のことばで「洗濯 パンレ」「炊事 シッタン」など書かれています。かなづちだった伊市さんが、有明国民学校のプールでおぼれた時、朝鮮青年に助けられたとも語っています。
日本名「安東赫均」君像
中食休憩中の朝鮮の青年たち
歴史資料としてのスケッチ付の日記。戦後78年を過ぎましたが、生々しい記録として私たちに訴えてくるものがあります。現在は整理中ですが、整理が終われば公開されることになります。それまでお待ちください(村石正行)。