古文書公開日記78 ―佐久郡長土呂村角田家資料の寄贈―
新年明けましておめでとうございます。
昨年12月に「佐久郡長土呂村角田家資料」の寄贈を受けました。角田家資料は『佐久市志』にも掲載されている史料でもあり、佐久市だけでなく長野県全体にとって、大変貴重な資料と言えます。今回、資料の所蔵者である角田和之氏の資料をきちんとした形で保存し、後世に伝えたいという思いのもとにご相談を受け、角田家資料約6,000点を長野県立歴史館へ寄贈していただくことになりました。
県内外で家や地域で守っていた古文書等の史資料の散逸が急速に進んでいる昨今、これだけまとまった資料を非常によい状態で保管し続けていただいていたことは大変ありがたいことです。
さて、その角田家資料は幕末の志士であり、国学者、神官である角田忠行の資料が中心となります。角田忠行(1834-1918)は佐久郡長土呂村(現佐久市)の神官角田忠守(1810-94)の次男として生まれました。父忠守は和漢学、算数を学び、江戸に遊学します。水戸斉昭や武田耕雲斎らと交わり、平田篤胤の門人となりました。また、岩村田藩主の侍講、藩学達道館教授ほか、近津神社・若宮八幡社の神官を務めました。
父忠守の影響を受けた忠行は1855(安政2)年に岩村田藩を脱藩、江戸に出て藤田東湖の塾に入り、同年平田篤胤没後の平田鉄胤の門人となりました。水戸斉昭や多くの諸藩の志士とも交わっており、今回の資料には数千点の書簡が残されています。1863(文久3)年には京都で師岡正胤(もろおか まさたね)とともに足利木像梟首事件(足利尊氏らの木像の首をぬき、京都三条河原にさらした事件)に加わりました。橋のたもとには忠行作文の制札を掲げ、尊皇の気概を表しました。京都では、松尾多勢子(下伊那郡豊丘村出身)とも交流をしています。忠行は幕府の追捕を逃れて伊那谷に潜伏しました。信州の平田派国学門人の数は全国一であり、その中でも伊那郡に特に多くの門人がいたことから、潜伏しやすかったのでしょう。
その信州から幕末の変革を考えていく上で、中心人物の一人である角田忠行の資料は大変大きな示唆を与えてくれるものになるでしょう。
忠行は1867(慶応3)年米川信濃と変名して上京。戊辰戦争に参加して秋田藩を説いて朝廷派に転向させました。明治維新後は皇学所監察、学制取調御用掛、大学奏任出仕、賀茂御祖神社少宮司、兵庫県広田神社宮司などを経て、1874(明治7)熱田神宮少宮司、77年に大宮司となり、1914(大正3)年まで務めました。熱田神宮の宮司時代に記録した書物等も大変細かくまとめられており、熱田神宮と神官角田忠行を研究する上で貴重です。
また、角田忠守は岩村田藩主の侍講をつとめたことから、終身禄を受けて藩士身分になっており、角田家と藩主内藤家との関わりを示す多くの資料も注目されます。なお、忠行の弟信道は明治初期の岩村田県に権大属として務めており、長野県合併時の引継等にも関わっているようです。
新年になり、角田家資料の一部について燻蒸処理が終わり、和本関係から整理を始めています。以下は角田忠行の著書『古史畧』(文久2年発刊)です。
これからどのような資料が出てくるか楽しみです。また、この「古文書公開日記」でも少しずつ紹介していきたいと思います。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。(大森昭智)