古文書公開日記73 下之郷神社へ納めた起請文ー武田信玄との「約束」ー
下之郷神社(生島足島神社)には、武田信玄が家臣に書かせた起請文80点あまりが残されています(重要文化財)。レーニンは「約束は破るために作られたパイの皮」と言ったとか。破談になる事が想定されるから、「約束」が作られ、「法律」があるのです。
そこで、約束が反故にされないために事前に作成された契約証文に「起請文」があります。中世という時代は当事者主義ですから、原則として刑法による治罰はありませんでした。約束が無視されて破られてしまっても、泣き寝入りということもしばしばありました。だから、約束が破られないように工夫をしなくてはいけません。
破約防止のひとつに、「起請文」がある、というわけです。現在開催されている「山伏」展でも、下之郷神社(生島足島神社)から武田信玄への忠誠を誓う岩村田「大井信通」の起請文を展示しています。
大井信通が約束したことはおよそ次の通り。
一 信玄様の対して逆心謀叛を企てません
一 長尾輝虎をはじめどんな誘いにも同意をしません
一 甲斐・信濃・西上野の家臣が逆臣を企てても自分は信玄様のことを一心にお守りし忠節を尽くします
一 兵をだせと命じられたので表裏・二心なく戦功をあげます
一 家中のものが信玄様の前で悪行したり臆病な意見を言っても決して同意しません
以上の誓約は、88名の武士が同様のことを記しています。つまり、ひとりひとりが自発的にこれを書いたのではなく、家臣が命令によって書かされたとみるべきでしょう。
ではいちどきになぜ武田信玄がこれだけ大量の起請文を提出させたのか。
これまでの説明はこうです。信玄の子義信が、信玄への謀反の疑いにより自害することになりました。嫡子だった義信が自害すること自体が武田家存亡の危機でもあったわけで、動揺する家臣団に対して、信玄が緊張感を持って結束させるために起請文を提出させたのだというのです。これも一つの見解です。
ただしこの説ではなぜ信濃国の生島足島神社であったのかは説明できません。なお近年では、この直後(永禄10年8月)に飯山城を巡る上杉謙信との直接対陣(幻の川中島合戦)が想定されていたことに対する家臣団の結束方法だという研究も注目されます。
さてこれらの起請文は信玄に対する「約束」。その約束を破ったらどうなるのか。
続く文面を見てみましょう。
もしこの旨に偽りがあれば梵天、帝釈、四大天王、伊豆箱根両所、三嶋大明神、甲州一二三大明神、富士浅間大菩薩大明神・新海松原大明神、熊野三所大権現、天満大自在天神、そして日本国中六〇余国の大小の神々の罰があたる
ありとあらゆる神々の罰が当たる、というのは、現代人にとってはあまりピンときませんが、神仏が身近な存在であった前近代において、全神々を敵にすることは恐怖以外の何物でもありません。
さて、大井信通が起請文を提出する際に使った和紙は、熊野牛王宝印という、熊野本宮の神威を示した版木で刷った護符です。熊野権現は「嘘をただす」とされていますから、約束を記すために都合がよい。しかも自分の指を切って血を滴らせ、血判を据える起請文がほとんど。「身血を染める」とは、誓約の固さと自己の誠意を示すもの。これほどまでして信玄は家臣に忠誠を誓わせた。疑い深く執念深いことこの上ない。友達にしたくないタイプです。
紙には熊野本宮の使である八咫烏(ヤタガラス)がたくさん書かれています。何羽いますか? 裏面を見て、企画展で確認してみましょう。(村石 正行)