古文書公開日記71 ―国策満州移民をあおったメディアと政治―
上水内郡水内村北原家文書(上條信彦氏収集文書)の整理を進めています。北原家は地域の有力者であり、北原長雄は上水内郡水内村在郷軍人分会長を務めています。昭和7(1932)年に日本の傀儡国家として建国された満州国には、長野県から3万数千人が渡っており、在郷軍人会も送出面で大きな役割を果たしました。以前にもブログで紹介しましたが、昭和11(1936)年から始まった満州信濃村開拓団募集関係のチラシやポスターなどが北原宛に届いており、分会長として村内からの移民送出が期待されました。
さてその北原家文書からまた満蒙開拓関係史料が出てきました。日付は昭和11年10月。上水内郡水内村在郷軍人分会長である北原長雄宛で、信濃毎日新聞社と信州郷軍同志会が連名差出人となった封筒です。中には信濃毎日新聞と信州郷軍同志会から各1通の通知文が入っていました。
信濃毎日新聞社からの文書は以下の通りです。
内容は、簡単にいうと全国に先駆けた「満州信濃村」を県民の誇りとしつつ、さらなる移民推進のために信濃毎日新聞社と満洲日日新聞社が共催のもとに「満洲移民勧奨の夕」を県下三ヶ所で開催するので、在郷軍人会会員、青年学校生徒をなるべくたくさん勧誘してほしいというものです。
また、信州郷軍同志会からの通知文は次のようなものです。
ちなみに信州郷軍同志会とは、下伊那郡の在郷軍人を中心として昭和9(1934)年に結成された結社で、国家主義的要求をもとに選挙や政治に干渉し、影響力を全県に広げていきました。史料中に名前の出てくる中原謹二はその中心人物であり、在郷軍人会下伊那郡連合分会副分会長でありながら、県会議員となった人物です。なお、この通知文が出された年(昭和11年)の2月には信州郷軍同志会から衆議院議員として立候補し、初当選を果たしていました。
ここでは、同会幹事長中原の満州現地視察のもと「国防と農村更生とを併せて根本的に解決し得る」ものは満洲移民政策であることを位置づけた上で、信濃毎日新聞社と満洲日日新聞共催の「講演と映画の夕」の開催について「従来の満洲感を是正し、満洲の真の姿を正しく認識せしめることに依って、吾が同胞の満洲移住心を生動せしめ」るものとして支持をする姿勢が記されています。
これらの史料からも在郷軍人会が政治に干渉しながら満洲移民を推奨し、信濃毎日新聞などの全県に強い影響力をもったメディアも世論形成の役割を担っていたことが想像されます。
実はこの信州郷軍同志会と信濃毎日新聞との間には因縁がありました。昭和8(1933)年の信濃毎日新聞主筆桐生悠々は陸軍を批判する社説「関東防空大演習を嗤ふ(わらう)」を書き、中原を中心とした信州郷軍同志会が不買運動を展開した結果、桐生は退社に追い込まれているのです。こうして反体制の芽が摘まれていった結果、信濃毎日新聞も国策を追随する国家主義的傾向を強めていったのでしょうか。
長野県の日本一の満洲移民送出を下支えした一要因として、地域に根ざしたメディアや政治の動きによって創られた世論があることは見逃せません。(大森昭智)