古文書公開日記68 ―青少年義勇軍橋詰中隊長のお便り―

 今月も引き続き、上水内郡水内村北原家文書(上條信彦氏収集文書)の整理を続けています。いつものように封筒に収められた資料の差出人と受取人を確認していると、差出人に「満州國濱江省珠河縣一面坡青年義勇隊訓練所橋詰中隊 橋詰正二」と記載されていました。

 青年義勇隊訓練所というのは、満蒙開拓青少年義勇軍の満州における現地訓練所です。青少年義勇軍の少年たちは現地訓練所で3年間の訓練の後、開拓団として入植しました。資料の橋詰中隊は昭和17(1942)年6月に渡満した主に北信地方出身の少年たちで構成された中隊で、中隊長の橋詰正二は更級郡塩﨑村出身、須坂国民学校に在職する教員でした。封筒に書かれた日付は「昭和十八年六月廿五日」。宛先は上水内郡水内村北原家に宛てたもの。情報をまとめると、この資料は橋詰中隊長が満州に渡って1年目に一面坡訓練所から上水内郡水内村の北原家に出したものだということがわかるのです。封筒の中身を見て見ましょう。

 この通信には、満州に来て1年目となる子どもたちと入所記念祭を行ったことの報告を中心として、隊員たちの成長の様子や作物収穫への期待などが記載されており、文末には「子ども達のことは全力をふるってその育成につとめます故何卒一切ご放念下さい」とあります。つまり、これは中隊長が担当する少年たちの様子を父兄へと伝える保護者宛のお便りと考えられます。現在の学校でもそうですが、親というものは子どもが学校でどのような生活をして、どんなことがあったのかということが気になるものです。今は学年通信や学級通信などのお便りで子どもたちの様子を先生が伝えてくれますよね。同じように当時は義勇軍の先生である中隊長が定期的に所属する隊員の様子を父兄へ知らせていたようです。

 青少年義勇軍の子どもたちの中には親元を離れて過酷な環境で生活することに馴染めずに屯墾病(とんこんびょう)とよばれるホームシックやノイローゼ等になる者もおり、その状況を父兄が心配して、自分の子を何とかして呼び戻そうとしたり、送出を認めなかったりする例がありました。橋詰中隊長のお便りはその父兄の不安を払拭し、義勇軍制度を維持、推進するための手立ての一つであったとも考えられるのではないでしょうか。

 ちなみにこの橋詰中隊は多くの隊員の応召等により単独での開拓団移行が困難だったため、同時期に渡満した久保田中隊、原中隊と合同で昭和20(1945)年4月に信州綜合義勇隊開拓団として入植しました。しかし、同年8月のソ連侵攻により、彼らの夢は打ち砕かれ、渡満から引揚げまでの間に橋詰中隊221名中70名が命を落としました。(『長野県満州開拓史 各団編』)

 この「お便り」は夢に向かって邁進する純粋な義勇軍の子どもたちの姿に思いをはせるとともに、その尊い命を失わせてしまった満蒙開拓青少年義勇軍政策への学びを深め、平和への思いを新たにするものとして受け止めていきたいと思います。    (大森昭智)

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