古文書公開日記66ー矢代武田家文書と家の由緒-

4月。歴史館へおいでいただくには大変お日柄の良い季節になりました。本年度も当ブログをよろしくお願いします。
 屋代駅には出口は西側しかありません。かつて長野電鉄河東線(屋代線)の発着駅でもあったホームもすでに撤去されてしまいました。この旧屋代線ホーム方面をのぞむとそびえる山が一重山です。そしてそのふもとにひっそりと立つ古刹が輝徳山長福寺です。矢代武田氏によって尊崇された寺院です。
 令和元年に矢代武田氏の資料群が寄贈され整理をしました。興味深いのはこの家のルーツに関する資料です。江戸時代の六代目新右衛門によって編まれた古系図によれば、そのスタートは武田信道という人物につながります。出家して一向宗長圓寺(長延寺)道快を名乗ったといいます。そしてその子信重という人物が武田宮内左衛門を名乗り、この武田家の祖と位置づけられています。そして矢代村柏木氏が信重を迎え婿とした、というのが矢代とのつながりです。
 なお信道の父は、武田晴信の次男で海野氏の名跡を継いだ信親(龍宝)ということになります。そしてその系譜を裏付けるものとして「武田家朱印状」が1点残されています。


此度依為海野氏名跡、旧知如故且可為侍八十騎之者也、全令領之間定之陣役可相動之条、 下知仍如件(このたびうんのしみょうせきたるにより、きゅうちいにしえのごとく、かつがつさむらいはちじゅっきのものたるべきものなり、まったくりょうせしむるのあいだ、さだめのじんやくあいつとむべきのじょう、げちよってくだんのごとし)       
 永禄四年八月五日  晴信(朱印)
海野次郎殿               

 この文書は海野氏の名跡を信親に対して出されたもので、旧領を安堵し侍八十騎を出し置くので軍役を務めよ、という内容。翌月には川中島合戦があるという緊迫した時期のものです。
 しかし、文言の違和感や晴信という名乗り(永禄4年には信玄と名乗るべき)から、文書自体は後世に作られたものと見るべきものです(なお「永禄四年」という年に仮託された後世に造作された文書はこの地域にはかなり多い)。
 大事なのはこの文書が「系図」とセットとなって家に伝来している点です。すなわちこの文書が、系図の記述の正当性を示す根拠として大切とされてきたことがうかがえるのです。
 同様に、文化年間に作成された「矢代武田氏先祖之像」(信重)の肖像画も、こうした経緯で作成されたとみられます。武田氏が松代藩士として江戸時代を通じて矢代宿に住していたことが知られるのです。

 なお賛文は江戸時代後期の儒学者で『四書集註』の校訂者である三谷僴(東奥)です。同時期に描かれている浅尾大岳画「孔門十哲像 閔損」(国指定重要文化財)に賛文を揮毫しているのがこの三谷なのです。矢代武田氏がこの学者に対して系譜や資料を提供し、賛文作成を依頼したのではないでしょうか。
 

江戸時代後期は、国学の隆盛する時期です。国のなりたちや古典へ注目する学問。やがてそれは自分たちの住む村の歴史、さらには自分のアイデンティティである家の由緒への関心が高まったのです。矢代武田家もこうした社会背景のなかで自家の歴史への着眼があったのでしょう。屋代駅の東側から長福寺や満照寺を拝観しながら一重山を登って歴史館に至る遊歩道もあります。天気の良い日にはこのルートで来館していただくのもありですね(村石正行)。
 

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