古文書公開日記65 ー戦争のための社会を支えた国防婦人会の女性たちー
近年女性の社会進出や男女格差について広く問題意識が共有されるようになってきています。しかし、日本はまだまだ世界に比べると女性の社会進出状況が大幅に遅れていることは確かです。女性の社会進出の一つの指標であるジェンダーギャップ指数(GGI)は156カ国中120位(2021年)で、決してよいとは言えません。その背景には、日本社会における女性に対する役割意識のようなものが指摘されています。つまり、「男は外で働き、女は家庭を守る」という考え方です。
それは、戦争の歴史においては、男は兵士として戦地に赴き、女は銃後の備えをしながら、それぞれが国のためにつくすことでした。「銃後の備え」というと何か金品の節約をしつつ、夫の帰りをひたすら待つという女性のイメージを持たれるかもしれませんが、実際にはそういった面だけにとどまらずに、積極的に戦争を後押しした女性の姿がありました。その母体となったのが国防婦人会という組織です。
国防婦人会は、1932(昭和7)年に大阪で結成された婦人団体で、会員が割烹着姿で兵士の送迎や慰問状の送付などの銃後の活動をしました。戦争協力と思想統制をねらいとする軍部の力を背景に大日本国防婦人会となると、瞬く間に会員を増やし、1941(昭和16)年には全国に支部、分会をおく1000万人規模の組織となりました。当館で整理中の水内村(現長野市信州新町)北原家文書(上條信彦氏収集文書)の中にも、水内村国防婦人会関係の資料が見られます。この資料は1936(昭和11)年の大日本国防婦人会水内村分会創立総会開催に関わる資料です。当日会員は「白エプロンヲ着用シ其ノ上ニ右肩ヨリ左脇下へ襷章ヲ掛ケテ出席」とあります。ただ、襷章がまだ配布されていない区については到着次第配布するとされており、結成直後の慌ただしさが感じられます。
長野県の小さな村までこのように組織的な取り組みがされていたのですから、全国的にどのような状況になっていたのかは想像に難くないでしょう。「お国のため」と力強く活動に邁進する女性が立派とされ、兵士をたくさん送り出す母が一人前とされる社会の中では、息子を失った悲しみや戦争への怒りを表に出すことは許されませんでした。国防婦人会を支援した軍のねらい通り、「ものが言えぬ社会」の中で日本は後戻りのできない道を突き進んでしまいました。
今の日本社会における女性の権利の問題、そして世界に目を向けた戦争と平和の問題など国防婦人会の歴史から学ぶことは多いように思います。(大森昭智)