古文書公開日記63 ―大井法華堂にあった「東照宮」!―

 1月も下旬となりました。コロナが蔓延しているなか私たちの史料整理も少しずつ進んでいます。 

 さて今年は当課文献史料課で収集し、整理し終えた文書を公開する夏季企画展「山伏-佐久の修験大井法華堂の世界-」をおこないます。企画展には、全国の名品を一堂に会する、いわゆる「特別展」のようなものがあります。また、新たに収蔵した史料や整理し終えたものを公開する、いわば「コレクション展」と称するようなものもあります。今回の企画展は後者に属します。   

 さて今回のブログで紹介するのは「大井法華堂」関係資料のうちの、大変珍しい史料です。東照宮の扁額。 

 東照宮とは、江戸幕府を開いた徳川家康を「東照大権現」として祀る神社のことです。余り知られてはいませんが、全国各地に神君家康を祀ったこの東照宮が分社あるいは小社として勧請されています。幕府の絶対的な神である東照宮ですから、幕府ではたびたび寺社奉行を通じて東照宮の数を各藩に調査を命じています。 

 「大井法華堂文書」には、本山を通じてあった所在調査(寛政8【1796】年)の経緯が記された文書があります。以下はその際の法華堂の返答書の一部。原文を読み下しています。

 「恐れながら東照宮様 御宮ご勧請奉り候趣意は、先祖源覚より修験道を相勤め、京都聖護院より年行事職申し付けられ、当年迄四百九拾三年相勤め来り、春は葛城山、秋は大峯山において国家安全・御武運御長久の大護摩修行の節は、私共五年に壱度ずつ御役に相登り、先達・年行事連ねられご祈祷仕り候、権現様よりも、天下泰平の採燈、丹誠を抽ぜらるべきもの也、御文に申さる段にて、年行事と申すの御書聖護院宮にこれ有る由、写しを所持仕り候。ご公儀様ご祈祷仕候義、ありがたきしあわせに存じ奉り候、おそれながら東照宮様御宮、小社に候えども境内清浄の地へ先祖ご勧請奉り、四月十七日・九月十七日御神酒をお備え献上たてまつり、自分にて天下泰平・御武運御長久・国家安全の御神事を仕り候(以下略)」 

 これによれば、法華堂の初代から493年、年行事を務め、大峯山への入峰の際も、大護摩修行の際には天下泰平の祈祷をおこなってきた、そこで東照宮を岩村田の地に迎えて、4月17日・9月17日に御神酒を供えて「自分」(法華堂堂主)みずから祈祷をおこなったというのです。4月14日は家康の命日、9月17日はまさに久能山から日光へ家康の遺骸を移した日です。 

 この返答書には続きがあります。これによれば、個人で勝手に東照宮を勧請することは恐れ多いことなので、この事実は跡継ぎ一人しか伝えてこなかったため親子兄弟であっても知らせなかったとあります(つまり藩へは報告していなかった)。

 しかし、寛政8年の調査では、個人で勧請したものであっても申告せよ、ということであったらしく、このまま黙っていては、これまでの先祖の祈祷が「詮もこれ無く、かえって不敬(無駄になってしまいかえって不敬にあたる)」ということで正直に申告をした、と言うことが記されています。なお、この東照宮小社は、このあと岩村田藩主内藤家公認の祈祷所となりました。

 天保7(1837)年、小社の社殿が朽ちたので改めて遷宮祭がとりおこなわれました。その書上によれば、東照宮正面の額は内藤正縄の筆になると記しています。

 また4月・9月の東照宮の2度の祈祷には、藩主・家中が参詣したが、百姓等が詣でることは一切なかった、といいます。東照宮研究をすすめる中野光浩さんによれば、江戸時代の東照宮信仰は、「民衆の手による勧請と信仰」というレベルと、「武家社会の閉鎖的ななかでの信仰」というレベルがあると大別しています(『諸国東照宮の史的研究』名著刊行会)。この分類によれば、大井法華堂の東照宮信仰は、当初は個人で勧請しましたが、その後一貫して藩が中心となって幕府体制の守護神としての東照宮を祀るものとして、「民衆レベルの受容を否定」するものであったと特徴付けられます。 

 なお江戸時代の信濃国の寺院に勧請された小社は7社、うち修験が6(本山派5、当山派1)、浄土宗が1です。また神社境内の祠としてのこっているものは6社です。修験道本山派の寺院に勧請された例が圧倒的に多いことが信濃国の特徴といえます。この扁額等は、ことし7月から開催される企画展で初公開されます。(村石正行)

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