古文書公開日記62 ー満州からの引き揚げに尽力した丸山邦雄ー
昭和7(1932)年に建国された満州国(現在の中国東北部)への満蒙開拓移民は全国から約27万人と言われています。しかし、満州国に居住していたのは開拓団の人々だけではなく、都市部を中心に多くの日本人が生活をしていました。終戦時には、旧満洲国と関東州(大連や旅順を含む遼東半島にあった日本の租借地)を合わせて約155万人の残留邦人が取り残されました。そこでは、国民党軍と八路軍の内戦、ソ連軍や現地人らによる略奪や暴行、収容所での疫病の流行、栄養失調等により、多くの日本人が命の危険にさらされていました。その引き揚げに尽力した一人が丸山邦雄です。
丸山邦雄は1903(明治36)年長野県下水内郡柳原村富倉(現飯山市)に生まれました。明治大学に入学して法律を学び、卒業後はアメリカへ留学し、ワシントン大学等で政治経済学を専攻しました。1938(昭和13)年に帰国した後は、満州の鞍山市に本社がある昭和製鋼所に入社しました。終戦後、厳しい管理下にある満州から何とか脱出し、在満同胞救済代表として、日本各地での演説会やラジオ放送で満州に取り残された日本人の引き揚げを呼びかけました。特に英語が堪能であった丸山は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)最高司令官であるマッカーサーにも直接面会をして、救出を働きかけたそうです。こうした行動もあり、1946(昭和21)年4月、旧満州のコロ島からの引き揚げが実現しました。
さて、昨年に引き続き「上水内郡水内村北原家文書(上條信彦氏収集文書)」を整理していると、このような丸山邦雄関係の史料が出てきました。北原家は地域の有力者ということもあり、選挙の際には様々な政党の立候補者や推薦者から選挙支援を求めるチラシが数多く送られてきています。丸山邦雄は1942(昭和17)年に衆議院議員選挙に立候補しており、史料は立候補の挨拶が書かれたチラシで、本人の略歴が掲載されています。それによると、丸山は明治大学入学前「大正九年現役志願ニヨリ高田歩兵第五十八聯隊留守隊ニ入隊、同十四年満期除隊(階級陸軍歩兵軍曹)」とあり、兵役に服していたことがわかります。大学入学前の丸山の行動がわかる貴重な史料と言えるでしょう。
また、同じく略歴に「北米合衆國ニ於ケル排日的移民法ノ適用ニヨリ在米日本人學生及一般在米同胞ニ対スル処置待遇冷酷非人道ナルモノアルニ見ルニ忍ヒス・・・「在米日本人留学生聯盟」ヲ結成シ目的實徹ヘノ運動ヲ展開」とあるように、よく知られている丸山の留学生支援活動のことも掲載されています。こうした活動からは、非人道的な事柄に対する問題意識をもち、行動をする運動家の面がうかがえます。こういった丸山であるからこそ、終戦時に現地で見た窮地に追い込まれた同胞たちも放っておけなかったのではないでしょうか。
丸山の立候補の挨拶文の中には、「大東亜戦争完遂の推進力たるべき皇道政治の確立の為に挺身せんと欲する」とあり、丸山も戦争に向かう国家主義的な傾向に抗うことは難しかったと考えられます。しかし、戦後の混乱の中、人道的な見地からいち早く動く行動力、自らの信念のもとにねばり強く社会にはたらきかける態度等、在満邦人100万人以上の引き揚げ実現に貢献した丸山に学ぶべきことは多いように思います。まだまだ丸山邦雄の史料は少ないのが現状ですが、より多くの史料が発掘され、研究が進むことを願っています。(大森昭智)