古文書公開日記61 ー泉親平の乱と尾崎氏ー

今年最後の古文書公開日記です。

 そして来年のNHK大河ドラマが「鎌倉殿の十三人」。主人公は北条義時です。源頼朝の妻で尼将軍と呼ばれた政子の弟、鎌倉幕府における北条氏の権力掌握をすすめた人物です。義時と信濃武士の関わりをちょっとみてみましょう。
 かつて戦国時代、上杉謙信の家臣で、飯山実城の城将に泉弥七郎という武士がいました。このご先祖が長崎県にお住まいで、企画展での史料調査の縁で所蔵資料一括を寄贈していただきました。尾崎氏は飯山尾崎郷(飯山市外様)を領した地侍です。家伝である「尾崎家譜」によると、尾崎氏は鎌倉御家人泉親平(ちかひら)を祖としたと伝えられ、南北朝時代以降、飯山左岸地域に分家を配し、それぞれ名字をなのったとします。これが尾崎・上倉・今清水・上堺・大滝・中曽根・岩井・奈良沢各氏で、総称して泉八家と呼ばれました。実際は、直接的に血縁関係があったのではなく、地縁を重視した武士団で、泉氏を軸とした地侍集団とみたほうがよいです。
 さてこの泉親平。飯山外様のほか上田市室賀にあった小泉荘周辺の出身とも考えられています(ほかにも松本市中山泉郷とする説もあります。これは泉小太郎伝説との関わりから生まれた伝承です)。この親平が歴史上あらわれるのは、源頼家の遺児千寿丸を将軍に擁立し北条義時を打倒しようとした事件です(泉親平(親衡)の乱)。
 鎌倉時代の記録『吾妻鏡』をみてみましょう。信濃国住人青栗七郎の弟阿静房安念という僧侶が、関東の豪族千葉成胤(しげたね)を誘って謀反を企てたとされます。その自白によれば、謀反の張本人は、信濃国の御家人泉小次郎親平であったこと、その目的は亡き頼家の遺児千寿を将軍として擁立し、幕府の執権北条義時らを倒そうというものであった、と。この自白により、加担した200名が挙げられたのだといいます。
 実際『吾妻鏡』に見える謀反関係者は25名、そのうち信濃出身者は8名と多く含まれています。いずれもその本貫などの素性がわからない武士が多いのですが、そのなかに青栗四郎・七郎がいます。名字の地として信濃国内には「青栗」地名はありません。従来の説では下高井郡木島平村和栗、このほか水内郡丸栗荘のあった中条村の説もあります。そもそも張本人である泉氏も、出自がはっきりとしないのですから、事件そのものがよくわからないのです。
 事件の首謀者の泉親平は逮捕を免れ逃亡してしまい、その後の追求はストップします。いっぽうこの事件には当時侍所別当であった和田義盛の甥胤長が加担し流罪となったのを始めとして義盛の子義直・義重も連坐しました(最終的には恩赦)。結果、この年の5月には義時討伐の兵を和田一族が挙げることとなり、開幕以来の功臣和田氏は失脚することになりました(和田合戦)。泉氏の乱はこの和田合戦との連続性で考えなくてはならないのでしょう。そしてこれは北条氏の権力掌握過程の一つだったといえるのです。
 さて、当館には泉氏の末裔が江戸時代寛延元(1748)年に寄進した「和光明神像」があります。明神とは現人の神です。像からみてあきらかに武人です。この明神厨子裏書によれば「小菅山大聖院院主法印實隆」が小菅山大権現宮に一宇を寄進し、和光宮・乗運宮を寄進したとあります。願主は尾崎歳就・福秀。
 尾崎氏は上杉景勝の移封により慶長三年、会津宮沢城将(山形県南陽市)として配置され信濃を去ります。この地には尾崎氏関係の伝承が残ります。熊野大社境内には尾崎氏の勧請したという和光明神が分社されているのもその一つです。歴史館に所蔵のものは尾崎家が所持していたものです。江戸時代、先祖ゆかりの地である小菅に和光明神像を寄附するために作られたものでしょう。寄進に際しての由来を示す厨子内部の板銘は写真の通り上部がすすけており読み込めません。

そこで改めて赤外線画像で撮影すると文字がうかびあがります。

これによればこの祭所は「源義平(源義朝の長男)」「泉親平」「泉重望」を祀っている、重望は最初「桃井直常」(南北朝期の武士)を名乗り「大聖院殿」を、その息子が「元隆寺」を称した、その後小菅に八所権現を祀ったのが由来であるとしています。この由緒は、江戸時代に尾崎氏がこの像を寄進するに際して書き上げたものなのだと考えられます。ではこの像は誰に仮託されたものなのか。尾崎(泉)氏の家紋から見れば悪源太義平ではなく、泉氏の祖親平もしくは重望かどちらかでしょう。これは今後の検討課題となります。
 よいお年をお迎え下さい。来年も文献史料課コラムをご愛読下さい(村石正行)。

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