古文書公開日記60 ー満州信濃村と在郷軍人会ー

 「上水内郡水内村北原家文書(上條信彦氏収集文書)」を整理しています。北原家は水内村(現在の長野市信更)の有力者で戦時期には帝国在郷軍人会の分会長も務めました。そうした関係で出征兵士の見送りや戦地でなくなった遺骨の出迎え等の在郷軍人会活動に関わる資料も多く含まれています。今回はその中で満州移民送出に関わる資料が見つかったので、ご紹介します。

 昭和7年の満州国の建国以来、日本は満州への移民を積極的に推し進めました。満州移民は国から県への割り当てがあり、県からの依頼のもと市町村単位での送出が推進されました。青年団や国防婦人会など様々な団体が国策への協力を求められましたが、在郷軍人会も大きな役割を果たしました。以下の資料は北原家宛ての封筒内に収められていた県学務部長から各町村在郷軍人分会長宛に出された「満洲信濃村建設並之ニ関スル協議会ノ件」(昭和11年6月13日付)という文書です。

 長野県は昭和11年度満蒙開拓移民送出において、全国に先駆けて県単独開拓団の移民村建設を計画しました。上掲の資料によれば、各市町村の在郷軍人会分会長に、移民者の選出に配意し、送出に関わる協議会への参加を求めていることがわかります。こうした各団体や県、市町村の熱心な勧誘もあって、200戸の募集枠に対し700戸の応募がありました。こうして全国初の一県単独の移民団送出と信濃村建設は大成功でした。

また別の在郷軍人会分会長宛ての封筒には「昭和十二年度満洲信濃村先遣隊募集」のポスターが入っていました。

 これは、昭和11年度の「第五次黒台信濃村開拓団」に続く、第2の信濃村である「第六次南五道崗長野村開拓団」の先遣隊募集ポスターと考えられます。同じ封筒内には以下のような「昭和十一年十月拓務省満洲農業移民募集」のチラシ(満洲移住協会発行)が入っており、ポスターとともに在郷軍人会で満洲移民の勧誘に用いるために配布されたものでしょう。

 「長野県満州開拓史 名簿編」によると上水内郡からは第五次黒台信濃村開拓団に73名、第六次南五道崗長野村開拓団には36名が応募しています。新天地で豊かな生活を夢見た人々でしたが、終戦時の混乱、出征等で80%以上の方が亡くなっています。

 全国一となった長野県の満州移民数を支えた要因の一つに、在郷軍人会を含む地域の諸団体の活動があったことは見逃せません。こうした各地域の資料の発掘により、戦時下の各団体に具体的にどういった働きかけがあり、どう動いたのかということがさらに明らかになってくることを期待しています。(大森昭智)

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