古文書公開日記59 ー和宮から拝領した「履きもの」ー

来年度夏季企画展に「佐久の修験-大井法華堂文書の世界-」を開催します。寄贈していただいた大井法華堂文書や伝来した資料を中心に約100点の展示をする予定です。

 さて、代々、和宮から法華堂へ寄進されたと伝承されている草履があります。鶴の柄の描かれた上品な女性の履き物。長さは約22センチ。

 文久元(1861)年、江戸幕府は朝廷と連携して内外の難局を打開するため、14代将軍徳川家茂に孝明天皇の妹和宮親子内親王(当年15才)を迎えることを要請し、認められました。これを受け同年1020日に京都を出発した和宮は中山道を東下し、1029日美濃国中津川宿に宿泊しその後信濃国へ入りました。 以降、三留野・上松・薮原・本山・下諏訪・和田各宿に宿泊し佐久へ入りました。

 佐久郡では芦田宿(立科町)で昼食、続いて八幡宿(佐久市)では117日本陣小松五右衛門家に宿泊しました。翌8日は千曲川を渡り、塩名田・岩村田を経て小田井宿(御代田町)で昼食を取り、沓掛宿に宿泊しています。9日は軽井沢宿で昼食し碓氷峠を越えました。

 このように記すと簡単な旅程に見えますが、信濃国のルートは標高差が大きいことが知られ、さらにこの行列が総人数2万人、行列は77キロメートルにも及んだというと、その前代未聞の壮観が偲ばれます。 

 岩村田宿は本陣・脇本陣がなく宿泊には不適な宿でした。和宮がこの宿を通過したのは文久2118日の午前ということになります。

 法華堂堂主源豊の日記によれば、9月2日に上総国長柄郡一宮藩2代藩主で若年寄だった加納遠江守久徴、旗本・留守居役跡部伊賀守良弼が和宮御迎のために法華堂へ逗留して小休したこと、法華堂堂主岩村田藩牧野林平より馳走を依頼されたことが知られます。その後、加納・跡部から岩村田藩主牧野氏を通じて御礼金が下されたことも記されています。

 実際に和宮が通過した前後の源豊の記事を見てみましょう。

11月3日「和宮様御通行ニ付加助人足八千人程来ル候由、右ノ内岩村田ニ四千人程宿り外四千人者八幡宿江行」

5日「右加助人足四千人程八幡宿江行」

6日「御カタメ始メ、御家老渡井際右衛門殿・御用人井上祐右衛門殿・御用人田中勇三殿」

7日「夕より御通行始り真に以珍敷大勢之御通行也」

8日「和宮様御通行小田井宿無滞相済候由珍敷御事御座候」

11日「御カタメ不残小田井御落合ニ而御一同御帰城被成候」

と記されています。残念ながら履き物を拝領したとする記事は見当たりませんでしたが、今後の資料調査により裏付けの記述が出てくることを期待しているのですが。ではまた(村石正行)。

 

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