古文書公開日記58 将軍家茂から拝領した手折りの鶴
古文書整理を終え公開した文書にはさまざまな思いが込められたものが含まれています。今回は室賀家資料を紹介します。
この資料群は、当館で開催された「信濃武士の決断」展で出展されたことがご縁で、平成27(2015)年3月に京都府京都市の室賀様より寄贈を受けた資料群です。文書は118点、近代写真資料は89点含まれています。
同家は中世村上氏の家臣で小県郡室賀郷を名字の地とする国衆を出自とすることから、16世紀後半の室賀満俊やその実兄である屋代秀正あてに出された武田信玄・上杉景勝・徳川家康などの判物や朱印状といった戦国大名文書が30点余り含まれており、中世の国衆のまとまった文書群であることが最大の特徴といえます。大河ドラマ真田丸で西村雅彦さんが「室賀正武」を演じた、といえばピンとくる方もいるでしょう。
この室賀家は上杉家の家臣となったあと、徳川家康へ出仕し、以来旗本として15代慶喜の時代まで仕えた幕臣となります。とくに徳川慶喜の側近(御側御用取次)として活動する室賀甲斐守(正容・竹堂)関係の史料が多く含まれることもこの資料群の特徴と言えます。松平慶永(春嶽)や山岡鉄太朗(鉄舟)からの書状も含まれています。
さて前置きが長くなりました。今回紹介するのはまさにこの室賀甲斐守正容。このブログでもガラス乾板の主として紹介した事があります(古文書公開日記34 参照)。
この正容は慶應2年から4年まで幕府御側御用取次に任じられています。この職は若年から将軍側近として活動してきたものが、将軍就任に際して専制度を高めるために側近の申次として登用されるものでした。この年、将軍家茂が病没して慶喜が就任したため正容がこの職に就任したのです。
さて、前任の家茂は弘化3(1846)年、紀州江戸藩邸で生まれ、4才で家督を継承しました。家定の死後、嘉永6年に将軍に就任しました。わずか13才。文久2年には朝廷から皇女和宮が降嫁し、家茂の正室となっています。
正容は、この将軍家茂みずからが折ったという「折り鶴」を大切に保管していました。正容の記録によれば「室賀甲斐守竹堂拝領セシ品 将軍家茂公御手折りの鶴」と記されています。いっしょにビロード地の葵紋も拝領したようです。
家茂からどのような経緯で、そしてどんな場面でこの折り鶴を拝領したのか。とても興味津々ですが、関係する史料は見いだせていません。
中山道を江戸に下った幼い和宮。彼女が各宿の本陣などに与えた玩具など拝領品はいくつか知られています。いっぽう夫となる家茂も幕臣に鶴を折ってあげた!その様子を想像するだけでも、なにか血なまぐさい政争とは無縁な、ほのぼのするエピソードだなあと思いませんか?(村石正行)