古文書公開日記57ー福島忠勝書状の初公開と「須坂市の日」ー
11月5日の良き日、須坂市と当長野県立歴史館が連携協定を結びました。三木須坂市長と当館特別館長笹本正治が協定書にサインしました。
この協定に基づき、連携事業の一段として11月21日(日)に「須坂市民の日」を設定することになりました。
今回は須坂市に関係ある古文書を2点公開します。このうち1点は初公開です。 福島忠勝は、福島正則の嫡子。元和5年に武家諸法度違反で広島城を没収され、信州川中島4万5千石に移封(改易に近い厳罰)に処せられた福島家。忠勝は名前のとおり徳川秀忠から一字を拝領していたのですが、父の改易により家督を継承します。その時の文書です。読みは次の通りです。
御見舞のため飛脚忝なく存じ候、御久米即ち頂戴申し候、仰せのごとく今度は不慮の国替の處は、無事に相済み満足申し候、次に太夫殿我等息災に御座候間、心安かるべく存じ候、いよいよ御神前において御祈念頼み奉り申し候、何様、なお重ねて御意を得べく候、恐惶謹言 以上 十一月九日 福嶋備後守忠勝(花押) 座主殿
宛先の座主は厳島神社神主。福島家ゆかりの神社。おそらく冬になる信州への「不慮の国替え」(思いがけない移封)を心配した書状を忠勝に寄せたのでしょう。忠勝は、国替えも無事済んだ、太夫殿(正則)も息災だから安心してほしい、今後も厳島神社で祈念してほしいと依頼しています。 忠勝らが移封したのは高井野藩。 高井野藩は2万石相当。陣屋は現在の高山村高井寺にありました。そのおもな範囲は次の通りです。 須坂市(村山・中島村) 高山村(高井野・駒場・奥山田・黒部村) 小布施町(小布施村他9ヶ村) 中野市(間山村他38ヶ村) 山ノ内町(夜間瀬村他3ヶ村) この他に越後国魚沼郡(新潟県)に2万5千石を所持しています。 残念ながら忠勝はこの直後に死亡。嘆き悲しんだ正則は、悲しみの余り魚沼領を返納してしまいました。
秀吉子飼いの武将福島正則をめぐる珍しい文書。ぜひ実物をご覧ください。須坂市民はもちろんのこと、県内外の皆様のご来館をお待ちしています!(村石正行)