古文書公開日記56 ー官報に掲載された無名時代の高橋是清ー
「官報」、と聞くとなにか肩肘張ったものというイメージがあります。そもそも、私たちの日常生活ではあまりなじみがないといったほうが正確かもしれません。
政府の政策、条約・法令など外交情報、公務員の任免、農業や経済動向、などありとあらゆる国内外の動向をコンパクトにまとめた、政府発信の情報伝達ツールです。驚くことに現在では、内閣府により行政機関の休日を除き「毎日」発行されているそうです。そして平成15年からはインターネットサイトで逐次閲覧できます。
さて、官報の制度はいつ始まったかご存じでしょうか。当館には官報の創刊号からそろっています。明治16年7月が創刊号です。時代は自由民権運動が盛り上がりを見せるころ。明治14年、反政府の言論を抑えるため、政府は国会開設を約束しつつ、早期国会制定を主張した大隈重信を罷免するというアメとムチの政策をおこないました。下野した人々は党派を組み、国会開設を見越した政治活動を拡大したのです。機関紙(新聞)を通じて政府批判を繰り広げたのです。これに対して政府は明治16年4月「新聞紙条例」を改正し、批判の取り締まりを強化したのです。この年の7月に刊行された「官報」は、文字通り、政府の広報物、すなわち政府のプロパガンダとして創刊されたことがわかるでしょう。
たまたま開いた明治25年1月4日付「官報」に面白い記事がありました。
曰く「東京帝国大学理科大学に標本類が寄付される」。
「信州松本近傍ニテ収拾セルモノ」として石器及び土器三四種が寄付されています。
さらに続けて、のちの蔵相・総理大臣である高橋是清が秘魯(ペルー)国の原住民古代器物を寄付したという記録が掲載されています。
高橋是清は幕末、幕府御用絵師の家に生まれましたが、まもなく仙台藩士高橋家の養子になります。藩命で海外留学の途にでますが、横浜商人にだまされ奴隷として売られてしまいました。米国で労役と苦学を強いられ帰国。国の官僚となったが、一念発起して明治22年ペルーへ渡航し炭鉱開発事業をおこないます。しかし大失敗し明治25年に帰国し、ホームレスになってしまいました。時に38歳。この官報の記録は、政治家でも総理大臣でもない、まったくの無名時代の一民間人高橋に関する「公的」な記録といえます。事実、高橋の自伝によれば、ペルーで墳墓の盗掘現場を見学していたことなどが記されています。そのときのものかどうか。自伝には記されませんが大変興味深いと思います。高橋はこのあと日本銀行に入り、日銀総裁まで勤め上げました。そして大蔵大臣を経て立憲政友会に入党、その後総裁、そして内閣総理大臣までへと上りつめたのです。高橋は当時の日本において、底辺から這い上がり苦学のなかで立身出世を遂げた人物の代表格といっていいでしょう。
無味乾燥な官報。しかしそのなかに、一人の青年のたった一行の事実が記されていた!。たまたま開いたページのたった一行とはいえ、史料が一気に目を覚ましたような気がしました。(村石正行)