古文書公開日記54 -発掘された四耳壺と記録された文書-
古文書書庫のなかにはたくさんの古文書があります。整理・公開されているたものだけでも30万点を超えています!
さて、実は書庫には古文書だけが保存されているわけではありません。
例として、今年度の『県立歴史館収蔵文書目録』に収録する予定の「伊那郡石曽根村飯島家資料」(2017年寄贈)をみてみましょう。
江戸時代の飯島陣屋、明治時代初期に伊那県庁のあった上伊那郡飯島町。明治16(1883)年、字日影(あざひかげ)という、飯島為孝氏の耕作地で瀬戸産の灰釉四耳壺(かいゆうしじこ 制作年推定15世紀前半)が発掘されました。高さ約26センチメートル、胴周り約19センチメートル。広縁部が欠けているものの、ほぼ完成品と言ってよい状態の陶器です。注目すべきはこの壺には古銭が入っており、約2,720枚あったといいます。為孝氏はこのときの様子を「掘出古銭録」に詳しく記しています(現代仮名遣いに直しています)。
「われ遠祖より世世伝来する所の一圃あり、字を日影と言う、近時大いに荒廃に至て爰(ここ)に三年耕作せず、甚だ惜むべき也、すなわち今回傭夫(ようう)今井喜之助なる者をして委(い)してこれを再発せしむ、よって直ちにこれを就行す」
「黄昏に及んでまさに止めて帰らんとするの時に、あに計らんや一壺を掘り顕わし自ら思うに汚物を埋伏するものなりと。卒然巨鍬(きょしゅう)を採ってこれに投ずるに、たちまち八破渾渾(はっぱこんこん)として古銭現出せり、驚きてこれを手にしてみるに確確たる正銭なり」
「はじめこれを観るに殆んど三千枚皆いにしえの唐銭にして悉(ことごと)く緑青萌着(ろくしょうほうちゃく)しその鐫文(せんぶん)明かならざる者多しといえども、これを古銭録に照對してこれを視るにその最も古きものは九千二百有余年にしてその最も近きものは凡そ三百有余年也」
発掘に際しての臨場感が伝わる文章です。緑青(ろくしょう)が付着して銭文が読み取れないものが多いなか、為孝氏は古銭録で照合を始めました。そしてその一覧を作りました(写真)。どんな銭が何枚含まれているかが分かる貴重な史料です。
為孝氏が出土銭の銭種を分類してくれたおかげで次のことが分かります。つまり、埋蔵銭のなかで最も新しい銭が弘治通宝(こうじつうほう)であることがはっきりするからです。この銭は明国で作られ日本へ輸出された渡来銭で、初鋳年は西暦1503年。つまり、この銭の埋蔵された時期は、少なくても16世紀以降になるでしょう。全国の埋蔵銭の集成をおこなった鈴木公雄先生の研究によれば、弘治通宝は埋蔵された時期の実年代を決定する「年代決定線種」の一つです。これによれば16世紀第4四半期(1575~1600)に実年代が求められます(『出土銭貨の研究』東京大学出版会、1999年)。
また為孝氏は銭の出土した場所も正確に記録しています(写真)。近隣には過去に短刀や刀鍔も出土している場所であったことも伺え、この図だけでも貴重な記録であることがわかります。
古銭はほぼ散逸してしまいましたが、埋納容器は現存しています。愛知県の瀬戸地方で製作された灰釉陶器。このなかに古銭をつめて埋めたと思うと不思議な感覚になります。
さて、壺に入っていた銭はどうなったか。物珍しいものであったことから、当時、近隣の人に記念にお土産で渡していったそうです。そして今では残る2枚のみがこの壺の中に納められ書庫で収蔵されています。(村石正行)