古文書公開日記53 -木曽義昌の判物-

 先日、当館にあたらしい中世文書が寄贈されました。それが「木曽義昌宛行状」。
昭和30 年代に刊行された『信濃史料』では大桑村の小野家文書として掲載されているものです。小野氏は大桑村池口寺の住職となりその経緯で池口寺文書となっていました。
今回、お寺から歴史館へ寄贈いただきました。
歴史館には木曽義昌の朱印状が2通所蔵されています(大槻家文書)。今回は印判ではなく、花押を据えた判物です。文書の読みは以下のとおり。
「桐原のうちにおいて百貫文のところ宛ておこなうべく候、ならびに、林の鄕預けおくべく候、納所等寄麗走り廻るべく、殊に武具・馬具等嗜み、稼ぐべきものなり、よって件のごとし」

壬午とは天正10 年。まさに天正壬午の乱のまっただなかです。
義昌は武田氏の親族でしたが天正9年には織田信長に転属しています。武田勝頼滅亡後の天正10 年3 月、信長は信濃国のうち安曇・筑摩郡を義昌に預ける国割をおこないました。そもそもこの2 郡は武田晴信に追い出された小笠原長時の本拠地でした。
長時の子の貞慶は信長の力で信濃復帰を目指していました。義昌と貞慶との間に大きな禍根を残すことになります。
事実、天正10 年6 月の本能寺の変直後、小笠原氏は旧地である府中(松本市)を奪います。奪ったのは上杉景勝に擁立された貞種。義昌は深志城を脱出し、木曽へ戻っていったのでした。
いっぽう貞種の甥貞慶は徳川家康の威光で7 月16 日府中に入り、叔父を追い落としました。
さて、この文書の宛先は小野内記助という武士。内容は、義昌が小野に対して、「筑摩郡桐原のうち100 貫文分の土地を与える、林郷は代官としておまえに預ける。よって、いくさ身支度をととのえて参加せよ」とあります。玄徹は義昌の法名です。
義昌の花押状(判物)は何点か知られていますがいずれも案文(写し)で、原本はほとんどありません。その意味でも今後の研究が待たれます。今回の寄贈で木曽地域の収蔵文書に厚みが増しました。(村石正行)

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