古文書公開日記52-第二次護憲運動と現代十六羅漢-
服部亮英(はっとりりょうえい1887年~1955年)という洋画家をご存知ですか。
岡本一平(岡本太郎の父)らとともに東京漫画会で活躍した漫画家、似顔絵画家としても知られています。きょう紹介する作品は、似顔絵を通じた風刺画家としての面目を躍如する服部の新出資料です(絹本著色)。
タイトルは「現代十六羅漢」。十六羅漢とは、お釈迦様の命令を受けてこの世で仏法を護持し人々を助けるために活躍する釈迦の十六人の弟子を指します。このうち第一の弟子賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ)は、通称「びんづる尊者」として知られていますね。
さて、現代の尊者として服部にとりあげられている人物は以下の16名。
西園寺公望(さいおんじきんもち1849年~1940年)第12・14代内閣総理大臣。最後の元老。
清浦奎吾(きようらけいご1850年- 1942年)枢密顧問官、枢密院副議長、同議長を経て大正13年(1924)に首相になるが政党軽視のため短命内閣。五・一五事件以降、重臣として国政に関与。
徳川家達(とくがわいえさと1863年- 1940年)明治元年(1868)徳川宗家を相続。明治23年帝国議会開設とともに貴族院議員となり、明治36年から昭和8年(1933)まで貴族院議長。
尾崎行雄(おざきゆきお1858年- 1954年)連続25回当選により「憲政の神様」と呼ばれた。大正元年(1912)の第一次護憲運動では犬養毅と共にその先頭に立ち、桂首相を追求、第二次護憲運動では清浦内閣を弾劾した。
山本権兵衛(やまもとごんべえ1852年- 1933年)大正2年(1913)首相となるがシーメンス事件により辞職。大正12年(1923)再び首相となるが、虎ノ門事件により辞職。
後藤新平(ごとうしんぺい1857年~1929年)大正9年(1920)東京市長となる。1923年第2次山本内閣内相兼帝都復興院総裁として、大震災後の東京復興計画を立案。
田健治郎(でんけんじろう1855年-1930年)。1923年第2次山本内閣の農商相。大正14年枢密顧問官。
斉藤 実(さいとうまこと1858年- 1936年)海軍大将、1919年朝鮮総督、1927枢密顧問官。1932年第30代内閣総理大臣。
山本達雄(やまもとたつお1856年- 1947年)立憲政友会を離党し1925年(大正14年)、政友本党を結成。昭和2年(1927年)、政友本党は憲政会と合同して立憲民政党を結成。
宇垣一成(うがきかずしげ1868年- 1956年)大正13年清浦内閣の陸相となり、第1次・第2次加藤内閣、第1次若槻内閣まで留任した。
浜口雄幸(はまぐちおさち1870年- 1931年)1915年(大正4年)に立憲同志会に入党、衆議院議員に当選して代議士となる。同志会が憲政会に改組された後は若槻礼次郎、安達謙蔵と共に3幹部として加藤高明を支えた。加藤高明内閣の大蔵大臣、第1次若槻内閣の内務大臣などを務める。第27代内閣総理大臣となるが東京駅頭で暗殺未遂により辞職。
高橋是清(たかはしこれきよ1854年- 1936年)1921年第20代内閣総理大臣。1924年高橋率いる政友会は、憲政会および革新倶楽部と護憲三派を結成し、第2次護憲運動を起こした。二・二六事件で暗殺される。
若槻礼次郎(わかつきれいじろう1866年- 1949年)大正13年(1924)加藤高明内閣の内相に就任し、普通選挙法の成立に尽力。15年に首相となる。ロンドン海軍軍縮会議首席全権を経て昭和6年(1931)再び首相に就任。
床次竹二郎(とこなみたけじろう1867年-1935年)原内閣、高橋内閣で内相。大正13年政友本党の結党に参画、同党総裁となる。立憲民政党顧問を経て昭和4年(1929)立憲政友会に復帰。
田中義一(たなかぎいち1864年- 1929年)原、第2次山本各内閣陸相を歴任した。10年陸軍大将。退役後、1924年立憲政友会総裁、貴族院勅選議員となる。昭和2年(1927)第26代内閣総理大臣。
犬養 毅(いぬかいつよし1855年- 1932年)。第1次大隈内閣文相、第2次山本内閣逓相をつとめる。大正11年(1922)、革新倶楽部を組織し、1924年加藤高明らと護憲三派内閣を結成、逓相に就任。その後第29代内閣総理大臣(五・一五事件で暗殺される)。
いずれも近代史上重要な政治家であります。「風刺画」であることから、服部は存命中の人物を描いていると思われます。したがって田中義一・後藤新平の没する1929年以前の作品とみることができます。さらに注目すべきは、明治・大正期の元老で、政界の実力者であった山県有朋や松方正義が描かれていない点があげられます。長州閥の元老山県は1922年、薩摩閥の松方は1924年にそれぞれ没しています。それぞれ最晩年まで隠然たる政治力を持っていましたが、作中には西園寺だけが唯一の元老として描かれています。したがってこの絵は二人が没して以降のもの(1924年~)と推定できます。
画中の上部には雲上に元老である西園寺のほか、貴族院議長徳川宗達、枢密院議長で首相を辞任(1924年)した清浦奎吾の3名を地上と超絶して配置しています。清浦が「超然主義」(政党を否定した組閣をした)ため辞職したことも暗示しています。
その下には海軍閥の山本・斎藤、陸軍閥の宇垣がおり、政党の政友会閥(高橋・田中・床次)・憲政会(立憲民政党)閥(浜口・若槻・山本達雄)さらに二度の組閣をした山本権兵衛と、山本に請われて関東大震災後の首都復興を担った後藤新平が彼らのおもしになっています。
そして画幅の左上と左下に第二次護憲運動の闘士尾崎行雄と犬養毅の政党人を描いています。第二次護憲運動は清浦内閣弾劾の政治運動で、憲政会と立憲政友会など護憲三派と呼ばれる政党によって主導されました。その中心となったのが加藤高明で、清浦の後内閣総理大臣となりました。しかしこの図には彼の姿は見えません。おそらく加藤が大正15年(1926)、在職中に没したあとの政界地図ではないでしょうか。
このようにみると、この画幅は、第二次護憲運動後の政治情勢、1926~1929年までのなかで描かれたものだろうと一応推測できるのです。これは、1927年初の似顔絵集『漫畫漫文似顔絵雲水』を服部が出版したころとまさに一致するのです。
この画幅は現在整理中です(村石正行)。