古文書公開日記51―疎開学童の慰問(いもん)―

1945(昭和20)年6月23日は、沖縄の司令官が自決し、軍による組織的戦闘が終わった日でした。慰霊の日であります。戦没者の方々には心からご冥福をお祈りします。
 厳粛な気持ちで本日も整理を進めています。
 北佐久郡芦田村本陣土屋家文書を整理しています。戦前の土屋家についてはこのブログで度々取り上げてきましたが、その史料のなかから、戦中の学童疎開に関する絵手紙が出てきました。学童疎開とは、戦火を逃れるため1944年に政府が命じた政策で、大都市から田舎へ学童を避難させたものです。『北佐久郡志』によれば、当時の佐久地方は東京からも比較的近く、「非常に多くの児童が疎開」してきました。芦田村には同年8月19日に杉並区堀ノ内国民学校児童5年女子19人、6年女子33人が町の公会堂に疎開してきました。この学び舎を芦田学寮と称しました。

 5年の谷口香さんはこう記します。「をぢさんお元気でおはたらきの事と思ひます。私は去年の八月にをぢさんのおとなりへ集団疎開して来ました。今はこの人たちと々やうに山から炭を背つて来ます。皆一つもこの土地にまけづに頑張ってゐます。今日は朝から雪が降ってゐました。毎日浅間山が火をふゐてゐてきれいです。一月にかんげい古をしましたが、皆一日もやすまずにやりました。あるひは大へんつらゐ時もありましたががんばってゐました。村の人も大へん心切にしてくださいますので私たちは大へんしはわせにくらしてゐます。本陣のおばさんも大へんお元気です。ではくれぐれもお体を御大切に」
これによれば本陣土屋傳氏あてにあてたものですが、おそらく出征で外地へ出ていたのでしょうか。隣家に越してきましたがまだ会ったことのないおじさんへの近況報告・慰問文だということがわかります。おばさん、すなわち傳氏の妻も元気であることをさりげなく記しています。
 芦田村では、つぎのような回覧板を出し、各家庭で疎開受け入れを協力するよう求めています。「二十才の青年一人が殺されればその損害を回復するのに二十年を要します。それから考えて見ましても、人の被害をできるだけ少なくすることは戦争に勝つためにも絶対に必要であります」「住宅に余裕のあるお宅では一部を疎開者へ提供してください、疎開者は皆国策に身を以て協力された方達でありますから、できるだけ温かい気持ちで迎えてあげてください、老幼者・妊婦・その他一般疎開者や学童に対しては真心を込めた慰問や激励をしてください」などと要請しています。
 学童も学びよりも日常の労働が生活の中に組み込まれています。岩本美越子さんは次のように記します。

「二月十三日にやつた炭負いです。とつても苦しいでしたがはをくひしばつてこらへ、兵隊さんの苦労を思つて最後までがんばりました。

やく場まで炭持つてくと決心し 足ふんばりて我等下れり」

岩田洋子さんの歌もあります。
 「御慰問 炭負ひてこの坂道を行く我を見送る浅間煙勇まし さやうなら」
 深谷貴美子さんは皇国の小国民と称し「小父さんも後に私達がゐるといふことを考へて安心してにっくい的を思ふぞんぶん倒してください」と土屋傳氏に送っています。

 戦時下のなかで、父母から離れて生活するわずか11才・12才の子どもたちを想うと、いたたまれない気持ちになりますが、そんななかでも精一杯がんばろうとする様子がにじみ出てくる絵手紙です。(村石正行)

歴史館ブログ

ページ先頭へ戻る