古文書公開日記49 ーらくだが通る-

ゴールデンウィークも終わってしまいました。とはいっても、遠出もできず、巣籠もりのような休みでした。皆さんはどのような連休をお過ごしでしたか。
この連休、岩村田大井法華堂の18代堂主源海(げんかい)の日記を読んでいました。源海は霊峰・大峯(おおみね 奈良県)での修行時の詳細な記録を残しているのです。また日々の様子を記録に書き留めており面白いのです。
1824(文政7)年の日記にはこのような記述がありました。
(八月)廿九日 朝ゟ(より)晴、秋暑、八ツ半時(午後3時ころ)、骼駝(らくだ)と申す馬二匹通る、首の長、四尺程惣身(そうみ)長サ弐間(にけん)程、長サ七尺程も有り、毛ノ色薄(うす)鼠(ねずみ)色(いろ)毛並悪し、尾ハ牛ノ尾之如クニテ短シ、足はふし三ツ宛(づつ)あり、三ツニ折れるものと見えたり、背ニ関鞍(せきくら)アリ餘程高シ、男骼駝と女骼駝ノ二匹ナリ、大坂辺より江戸表へ見世物ニつれるよし、今宵追分(おいわけ)泊りと申事、誠ニ珍敷(めずらしき)もの、喰物ハ米・豆・茄子・桑ノ葉などのよし、千曲川満水ニテ落橋、水中奇妙に渡リ候よし、
男女つがいのラクダが中山道岩村田宿を通過したのでしょう。ラクダは馬の一種と認識されていましたようです。横の長さ2間(約2・6㍍)、高さ7尺(約2・1㍍)。さぞ大きな動物で驚いたことでしょう。足の形や座り方など丁寧に描写しています。とくに、洪水で橋が落ちてしまったので千曲川の水中を歩いて渡ったという話も面白いではありませんか。おそらく岩村田のひとつ手前の宿塩名田の渡し場のエピソードを伝え聞いたのでしょう。大坂から江戸へ見世物として送られる様子、古文書講座のテキストでも面白いかもしれません。
「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」。どうしようもない男「らくだの馬(うま)」が死んだあとの、長屋の周辺の人々のやりとりを活写した古典落語の名作「らくだ」。柳家小さん師匠や立川談志師匠などの演目でよく知られています。身体が大きくのろのろ動く「ラクダ」は、図体ばかり大きくて役立たずの人を指す江戸時代の「あだ名」のひとつだとか。文政4年に長崎に入ったラクダは文政7年に大坂難波で興行。その後中山道を通って江戸両国に見世物としてラクダがやってきて連日大人数がラクダみたさに両国小屋を訪れたといいます。江戸っ子にとって初めて見るラクダ。この文政年間のできごとが、記録のうえでは日本人と生きたラクダの初対面だったということになるのでしょうか。落語「らくだ」はまさにこのときの記憶が江戸っ子の粋な話芸と結びついたといえます。
日記とは日常生活のなかの「非日常」を記す媒体。源海さんが見つめたラクダ。日記のネタとしては十分すぎる面白さがあったことは間違いないでしょう。
おっとりとしたラクダをみた江戸っ子は、この馬何の役に立つんだろうと感じたに違いありません。ちなみにラクダは「重きを負うて千斤(約600」キログラム)に至るべし、日に行くこと二・三百里(中国では1里≑500メートル、300里で150キロメートル)」とあり、600キログラムの荷を背負って100~150キロメートルも運べた力持ち。「井戸のありかも探せた」(和漢三才図会」37)ということで、大陸では重宝された優れた輸送手段であったというのです。これは一応、ラクダの名誉のために。