古文書公開日記46 文書主義の時代を生きる-日々生産される公文書-
3月を年度の変わり目としている日本では、この年度末は転退職や新規採用など人事異動の季節として慌ただしい月といえます。行政組織もこれから慌ただしい毎日となります。
さて、暮らしの安全を守り市民社会の生活を滞りなくするために役所はさまざまな政策をおこなっています。そしてこれは「文書」によって立案し、組織内で検討し部署の上司の承認を経て最後は所属長による決裁を経ないと施行することができません。わが歴史館では笹本館長の印によって最終決裁となるのです。これが「文書主義(ぶんしょしゅぎ)」というものです。
なぜ口頭ではなく文書によるのか。理由は二つあります。ひとつは、政策過程を透明化することで、政策の正当性をあきらかにし信頼性を高めることができるからです。第二は、その政策の妥当性を主権者である市民が追検証することができるからです。とくに後者は、民主主義社会の根幹ともいうべき重要な意味をもっているのです。
この文書主義ですが、なにも近代社会の申し子というものではありません。高井郡桜沢村の文書作成について分析した古川貞雄氏は18世紀中頃には村で年間132点だった文書量が、19世紀中頃には3倍以上にまで増加し年間500点作成されていくようになったとし、文書(もんじょ)による支配が村に浸透しつつ、民衆も文書で権利を守ろうとする社会が一般化したことを明らかにしています。
さて、ひるがえって現在、長野県庁では毎年どれだけの文書が作られているのでしょう。はっきりデータでわかるのは平成13年なのですが、この年、法規学事課行政情報室が全庁をあげて前年度作成の文書量を調査しているのです(平19/A6/15「文書量調査」当館蔵)。
これによれば、県庁内部の一七部局で20,482点(注 平成13年度段階の部局名・数)。県庁の外にある162現地機関では104,807点が作られています。県庁内では総務部が2,354点で最も多いのですが、各課毎におしなべて見ると、総務部9課で平均262点であるのにたいし、例えば企画局は3課平均293点、社会部8課平均232点、教育委員会9課平均253点、など、作成文書数はほぼ1課あたり250点前後となりますから、だいたいの年間に作られる文書はほぼ課ごと一定に思われます。現地機関では、例えば上小地方事務所では総文書数2262点に対し、8課の平均にすると283点となります。課の定数との精査が必要ですが、人間一人が年間で作成する文書数のおおよその傾向をつかむことはできます。
当館には、東日本最古の皇室関係文書「鳥羽院庁下文」(重要文化財)があります。院政を敷いた鳥羽上皇の役所(院庁)が、水内郡小川荘の現地管理を巡る訴訟で当事者宛に出した命令文書も、公文書です。内容はここでは省きますが、判決文の作成者は、大江以平(おおえのもちひら)。大江氏は朝廷の文書行政を代々おこなってきた、法律・文筆に長じた下級役人です。この以平がまず判決文の文案を記しました(これを起案(きあん)といいます)。ついで院庁別当と呼ばれる面々にこの案が回覧され(回議)、次々と決裁を認める花押(サイン)が据えられていくことになります。
サインする面々の中で唯一空白になっている人物がいます。「尾張守兼右京大夫平朝臣」。このひとこそ平清盛の父。なぜサインをしなかったのか。この話題は、花押の話とともにまた別の機会に。(村石正行)