古文書公開日記44ー中国戦線 温井部隊水野分隊長からの手紙ー
ご報告です。県立歴史館の古文書公開点数(公文書は含みません)が2月2日現在で30万点を超えました(データベース上では26万件ですが点数にすると30万点です)。開館27年目になりますが、1年に約1万点ずつ公開していることになります。購入したり館に寄贈していただいた史料は、県民のお蔵としてできるだけ早く整理し公開します。ぜひご活用いただきたく念じております。
さて、いま私が整理しているのは松本市仲町の水野家文書です。その全てが戦時中の書簡類です。出てくるのは祖父高太郎さん、父市次郎さん、そして子の市治さんです。市治さんは昭和12年頃には松本連隊に配属され、中国大陸に従軍しています。その間おじいさんや父君から葉書をもらっています。市治さんは温井部隊の分隊長を勤めていたようです。ただし中国戦線は激しく、なかなか便りも出せなかったようです。「暫く通信が無い何処でも通信が無いと云つてゐる。通信どころではないてあろう、北支戦線熟し軍の活発の動きが毎日新聞で見てゐる」と家族は新聞で温井部隊のことを知るという有様です。
ようやく市治さんが家族へ返信できたのは1937(昭和12)年9月14日でした。その葉書によれば、天津の町大冶からで「二日間と云ふものは飲まづ食はづです。二百十日も舟の上ですごしたわけです」と記しています。
面白いスクラップもでてきました。同年11月28日付け毎日新聞夕刊「雪の戦線に燦たり 勇猛『夏服挺身隊』その名も床し温井部隊」とあります。極寒の北支戦線でも夏服の温井(ぬくい=温かい)部隊。
しかし、戦局は悪化します。温井部隊は永定河渡河戦を皮切りに保定、西安、順徳警備に任じられ、昭和13年2月初旬第2次作戦の為め山西に共産軍掃討に出動しています。山西で2ヶ月を過ごした4月、共産党軍の猛攻撃を受け、市冶さんは戦死してしまいました。市治さんのほか多数の戦死者が出た温井部隊ですが、水野家の史料には、戦死の状況を部隊の仲間たちが克明に記し、遺族へ弔意の手紙として残されています。生々しい記述ですが、仲間を失った悲しみだけでなく、最期まで立派に戦ったということを遺族にしっかりと伝えなければならないという、強い意志がみてとれます。
ご遺族は市治さんの手紙だけでなく、家族が市治さんに送った手紙を遺品として再び手にするわけです。大事に残されてきたこれらの史料には、さまざまな思いが込められている。そう思うと、縁あって歴史館でこれらの史料を預かることの意味をかみしめ、厳粛な気持で整理していこうと改めて思う次第です。(村石正行)