古文書公開日記43ー松本藩戸田家家中の名簿と旗指物ー
遅れましたが明けましておめでとうございます。丑歳の本年も「牛歩」のごとくのんびりですが、確実に整理を進めていきます。公開できるのはまさに「九牛の一毛」ですが、「牛も千里」で地域史料を着実に公開していきたいと思います。
当館に収蔵されている古文書は地方文書(じかたもんじょ)や町方文書(まちかたもんじょ)といって、江戸時代の農村の村役人(名主・庄屋・組頭など)や町役人の家に伝わった文書がほとんどです。これに対しまとまった武家文書(大名・藩士)というものは当館の蔵書としては数少ないというのが現状です。
当館では2017(平成29)年から、信濃国の藩政史に関わる史料を少しづつ収集しています(下図参照)。とくに各藩の分限帳(ぶんげんちょう・ぶげんちょう)は家臣の身分・格式・知行高・俸禄などを記した名簿で、藩史研究の基礎となるものですのでご利用下さい。
当館に収蔵されている古文書は地方文書(じかたもんじょ)や町方文書(まちかたもんじょ)といって、江戸時代の農村の村役人(名主・庄屋・組頭など)や町役人の家に伝わった文書がほとんどです。これに対しまとまった武家文書(大名・藩士)というものは当館の蔵書としては数少ないというのが現状です。
当館では2017(平成29)年から、信濃国の藩政史に関わる史料を少しづつ収集しています(下図参照)。とくに各藩の分限帳(ぶんげんちょう・ぶげんちょう)は家臣の身分・格式・知行高・俸禄などを記した名簿で、藩史研究の基礎となるものですのでご利用下さい。
さて、松本藩戸田家関係の分限帳「諸侍知行附」と「家中馬印差物家紋集」を先日収蔵しました。前者は横半帳の冊子で、家臣の名前・知行高、家督相続年月日が記されています。興味深いのは、このほかに家臣がどこで戸田家に仕えたか(一族の出自)が記されていることです。
たとえば ・野々山内匠は「千五百石・二連木天」
・西郷新兵衛は「六百石・古河」
・戸田図書は「五百石・加納・淀冬」
などと記されています。
たとえば ・野々山内匠は「千五百石・二連木天」
・西郷新兵衛は「六百石・古河」
・戸田図書は「五百石・加納・淀冬」
などと記されています。
二連木(にれんぎ)は現在の愛知県豊橋市の地名で、戸田氏が三河時代以来の徳川家康の譜代の家臣として根拠地としていた場所です。戸田氏は康長の時代に家康とともに関東へ移封し、松平姓を許されました。野々山氏は戦国時代以来戸田氏の家臣として活躍していた由緒が知られます。
古河は康長が1602(慶長7)年に移封し慶長17年まで治めた場所です。その後 に常陸笠間藩へ上野高崎藩を経て元和3年に小笠原氏のあとをうけて松本藩主となりました。
松平戸田氏は松本藩を経て播磨国明石藩、美濃国加納藩、山城国淀藩を経てそして1725(享保10))年再度松本藩主となったのです。このことから西郷新兵衛は古河で仕官し、戸田図書は、加能(岐阜県岐阜市)・淀(京都府京都市)時代の新参と思われます。天・地・冬・春などの冊名から、これらは戸田家の家譜「諸侍出身記」より転記抄録されたものと思われます。
さて、もう一冊の「家中馬印差物家紋集」は彩色図で、1806(文化3)年の写です。野々山内匠の馬印は「金銀取変」、差物は「黒塗・金銀取変」であることがわかります。
古河は康長が1602(慶長7)年に移封し慶長17年まで治めた場所です。その後 に常陸笠間藩へ上野高崎藩を経て元和3年に小笠原氏のあとをうけて松本藩主となりました。
松平戸田氏は松本藩を経て播磨国明石藩、美濃国加納藩、山城国淀藩を経てそして1725(享保10))年再度松本藩主となったのです。このことから西郷新兵衛は古河で仕官し、戸田図書は、加能(岐阜県岐阜市)・淀(京都府京都市)時代の新参と思われます。天・地・冬・春などの冊名から、これらは戸田家の家譜「諸侍出身記」より転記抄録されたものと思われます。
さて、もう一冊の「家中馬印差物家紋集」は彩色図で、1806(文化3)年の写です。野々山内匠の馬印は「金銀取変」、差物は「黒塗・金銀取変」であることがわかります。
戸田図書は「鮟鱇白・丸朱筋金」の馬印でした。
太平の世とはいえ、馬印・旗指物は、武功を内外に示すために目に付きやすい派手なものを志向したものといえます。また、このようなものは家中の間で共有されるべき情報でもありました。
藩政史史料は今後も継続して収集して参ります。(村石正行)
藩政史史料は今後も継続して収集して参ります。(村石正行)