古文書公開日記42 宮大工藤森政因の残した差図

 年の瀬如何お過ごしでしょうか。今回は新しく整理し終えた藤森家文書を紹介します。
 古文書は一点一点それぞれの価値があることはいうまでもありません。しかし、歴史研究ではその文書を所持していた家の性格、あるいはその地域の歴史を明らかにすることがより重要になってきます。確かに、たった一通から新しいことが分かることもごく稀にはあります。しかし、文書群全体からアプローチしないとトータルの歴史像は明らかにできませんし、多くの場合、意味の分からなかった一枚の文書でも、全体の中に位置づけてみることによって初めてその意味を解釈できるのです。大量に残っている文書を安易に選別しばら売りするネットオークションというものが、そういう意味で、本来豊かであるべき地域の歴史像を矮小化してしまう危険な行為といえます。
 さて、今回整理した史料157点の特徴は、年号・作者が99%分からないものでした。すべて寺社の建築の下図や差図、あるいは雛形と覚しきものでした。そのなかで唯一、記名があるものが、藤森藤五郎政因(まさより)
による弘化3(1846)年「信陽松本御領所龍澤山碩水寺楼門十分一之図」(設計図)です。

この建物は筑北村碩水寺(せきすいじ)に現存しています。設計図が残ることは稀です。寺伝では嘉永元(1848)年の建立とありますから設計から2年で完成したことがわかります。鐘楼を兼ねたこの楼門の2階には高欄と回縁をめぐらし下段はアーチ型の曲線が特徴的な門となっています。この図面自体、これまで知られていない新発見の史料です。実際に碩水寺を訪れてみました(下図)。


 諏訪郡高部村(茅野市高部)出身の宮大工藤森氏に関する建築例は数多いですが、その関係資料がまとまって残っていることは、今後の近世社寺建築の歴史を見るうえでも重要だと思われます。 
 宮大工藤森氏は初代は広八包近は明和7(1770)年に高部村に生まれました。神宮寺村上社宮大工原五郎左衛門親貞、立川流立川冨棟に師事し独自の藤森流ともいえる建築流派を作りました。

主な作例は寛政12(1800)年無極寺本堂(松本市和田 下図)。

文政2(1819)年兎川寺(とせんじ)本堂(下図)。

このほか碩水寺本堂、文政9年の照光寺薬師堂(岡谷市)などがあります。また諏訪上社布橋と四脚門も原などとともにチームで共作した初代のものとして名を残しています。また包近の父包好も延享4(1747)年に諏訪市湖南の善光寺本堂を手掛けています。
 本史料で碩水寺楼門を制作した政因はこの2代目にあたります。このほか観松院(松川村)にあった嘉永5年に建立された二階建て楼門形式の山門も藤森広八政因の代表作です(廃仏毀釈で松川村観勝院より解体移動され明治11(1878)年に大町市霊松寺境内に移築。下図参照)。

さて、この史料群の特徴は、組物・木鼻や透し彫の下絵と見られる図面が数多く残されている点でしょう。波や龍などの彫り物は宮大工の一つの腕の見せ所です。ひょっとしたら、これらのなかに現存する彫刻の素材が含まれているかも知れませんね(下図は龍図) 

無極寺「龍の彫り物」(下図)

兎川寺「龍の彫り物」(下図)

 虎の下絵(下図)

馬の下絵(下図)

 藤森氏は社寺建築において中南信だけでなく山梨・三河方面に足跡を残しています。この史料群はその技術をうかがうためのものとして重要であります。断簡でも、まとまりさえ残っていれば、史料としての意味づけも格段に高まることを教えてくれる文書群です。(村石正行)

12月16日追記 「諏訪郡高部村大工藤森家文書」とは別に、「松本市公文書館移管文書」のなかにも関連する文書が含まれていることに気づきましたので合わせてお知らせします(旧観松院山門、虎・馬下絵はそのうちの一部です)。

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