古文書公開日記40ー京極高知の新史料ー
これまで知られていない新しい中世文書が出てくることは稀です。今回、伊那郡大草村文書(寄託)を整理中に、京極高知の黒印状が眼前にあらわれました。『信濃史料』(長野県の古代・中世および近世初期の古文書を網羅した史料集です。以下『信史』と略)にも掲載されていません。以下翻刻文。
定
高以
合貳千貳拾壱石八斗 大草之郷
六ツ取
千貳百拾三石九舛 物成
文禄二二(四)年 五月十三日 生双 黒印
大草之郷香坂右近助殿
1595(文禄4)年、飯田城主京極高知が伊那郡大草郷(中川村)の香坂右近助に対して、村高と物成(年貢)の高数を記したものです。前年の9月にも、印判で年貢請取状が発給されていましたから(『信史』18-13頁)、春の年貢高確定と秋の収納とそれぞれ文書が出されたのでしょう。
香坂右近助は、もとは武田家家臣。文禄3年の「いいつたい(言伝)の事」(『信史』18-14頁)によれば「昔宗良親王様信濃国伊那の大草の山里にかくれし時、先祖も従い世の訪れ悪しき故に大河原の深山に御供致し久しく立籠し末に、鎧・旗とも給わりて家の宝に傳る、また後々子孫甲州武田家へ従い申候」と来歴が知られます。実際には1572(元亀3)年、右近助宗満は知久頼氏に伊那郡下村・毛呂窪を宛がわれています(『信史』13-529)。1581(天正9)年、武田勝頼は宗満に円福寺に伊那辺のうち大蘆の大坊分を宛がっています(『信史』15-18~19頁)。天正18年には毛利秀頼の家臣となっており、益田芝次とともに奉行人として虎岩道正入道に年貢進納を伝えています。さらに秀頼没の翌年、文禄3年9月には大草山里巳年の年貢2566俵1升3合を請けとった旨を香坂右近助に対して京極高知の黒印状が出されています(『信史』18-13頁)。
印を見てみましょう。「福」。と読めます。高知は、吉兆を表すわかりやすい好字(こうじ)を選んだのでしょう。福徳・福寿など、大名の印判には、福字はよく用いられました。
飯田時代の京極氏の知行宛行状及び定書は、入部した文禄2年に5通、翌3年3通、4年2通が知られます
京極高知は1572(元亀3)近江国小谷で生まれました。父は京極高吉、母は浅井氏娘、京極マリア。兄は高次。母の影響で幼時に受洗したキリシタン大名でした。その初名は生双。1591(天正19)年近江国蒲生郡5000石を兄より分地され、1593(文禄2)年、側室の父毛利秀頼の遺領伊那郡6万石を継承しました。飯田城に入り従四位下侍従に任じられ、「羽柴伊奈侍従」と称しました。これは豊臣政権のなかで、朝廷の公家のランク付けをされた「公家成大名」となったことを表します。文禄3年8月6日には文永寺において秀頼の1周忌法要をおこなっています。
高知はこのように豊臣大名の一人でしたが、秀吉の死後は徳川氏の党となり、関ヶ原合戦では前哨戦の岐阜城攻撃で戦功を上げています。この功により飯田6万石からから丹後田辺12万3千石を与えられ田辺城に入り宮津に城を築いています。1622(元和8)年に没しました。このように京極氏の飯田治世は約7年です。発給文書も少ないなかで、今回の発見は大変重要なものと思われます。整理が終わり次第公開いたしますので今しばらくお待ちください。(村石正行)