古文書公開日記37-実習生「土屋家資料」を整理する-

開戦2年目の昭和17年12月8日、首相東条英機の色紙。

 博物館実習真っ只中です。今年はコロナウイルス蔓延で、実習生にとっては大学が休校となったり講義がオンライン化されるなどさまざまなビハインドのなかでの実習です。歴史館では密を避けるため通常の実習内容を精選し、期間を短縮したうえでの実習開催になります。
 21日は、古文書の整理・保存実習をおこないました。これまで地域の中で大切にされてきた地域史料と呼ばれる「地域の来し方を映し出す記録」。それが現在、急速な勢いで消失しています。もちろん災害での文化財被災もそうですが、それ以上に、土蔵や家屋の取り壊し。所蔵者の代替わりによる関心の喪失。それに比例して、売り立て目録やネットオークションに掲載されるに長野県関係の古文書がいかに多いことか。嘆息しかでない状況です。
 さて、県立歴史館は市場に売り出されている古文書の情報を集めています。しかしそれらをすべて購入することは物理的に無理です。むしろそれを防ぐために未然に「寄贈・寄託」(地元の市町村もふくめての意味です)といった制度で、県民の財産を「まとまり」で残していくことが大切ではないかと思います。
 今日は、佐久郡芦田宿土屋家文書の整理をしました。土屋家は中山道の本陣です。江戸時代の文書はすべて整理が完了しましたが、近代史料はまだ未整理に近い状態です。そのなかで実習生には、昭和初期の新聞の整理とナンバリング、読解をおこないました。どんな史料があるか、担当であるわたしもわからず、ドキドキしながらの作業でした。
 4つの箱のうち、原秩序を崩さないように1箱づつ開いていきます。おそらく1000点以上の新聞がここにあるこのでしょう。その一番最初の新聞が「朝日新聞昭和16年12月9日」付の、つまり「真珠湾攻撃」を大々的に報じたものでした。実習生自身も、教科書で見ることはあっても、実物に接することは初めてだったようです。しかも実際にさわり、整理して番号をつけるという初めての経験をしたのです。それだけでも貴重な経験ができたと思います。

 さて私自身も、勉強になったのは、どうもこの家の当主(長野県視学で、明治時代から交詢社社員として交詢雑誌を購読していた土屋傳氏。戦後は蓼科高校校長など勤めている)は、開戦のこの日の新聞から毎日漏らさずストックしていったらしいことがわかってきたことです。まだすべての箱を開いたわけではありませんが、もしそうだとすると、時系列で新聞記事の論調を比較していくことができるのです(なお応召中の新聞も家族により保管されています)。もちろんこれらはすでに大きな図書館や大学図書館などのマイクロフィルムなどですでに読み込む環境はできています。しかし実物から得られる情報も大切です。日を追うごとに紙質が悪化し、頁数も減るようすも一見してわかります。教員であり、視学という吏僚という立場でもある一個人が、4年にもわたって戦争関係の新聞を収集し続けた行為にはどのような背景があったのか。戦争に至った日本がそのあとどのような道を進んでいくのか。集め始めた当初の土屋は、もちろんそんな近未来の予想はできない。土屋は、そのかわり新聞の記事によって語らしめようとしたのかもしれない。コピーではない実物資料が問いかけることは多いと思います。
 明仁皇太子(現在の上皇陛下)が戦闘機に搭乗している写真も含まれており初めてみました。元司法大臣で枢密院議長原嘉道死去の速報記事は、朝日新聞に比べ信濃毎日新聞のほうが大きく詳細に取り上げています。それは原は須坂町出身の法曹学者でもあったからでしょう。

 傳さんは朝日新聞購読者でありましたが信濃毎日新聞・報知新聞も含まれています。新聞記事を読み比べることもできます。
 「土屋家新聞資料」。酸性紙で劣化が進みつつあるものもありますが現状ではかなり丁寧に保管されていたことがうかがえます。1点ごと史料を大切にしてきたことがよくわかります。私たちはさらなる劣化が進まないような工夫を考えながら、土屋家のその他の史料と突き合わせて時代を複合的に読み解いていきたいと考えています。(村石正行)

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