古文書公開日記34―ガラス乾板と記録文化財―

 古い史料を整理していると、意外なものに出くわすことがあります。
 江戸時代には大切な情報や備忘は、「紙」(板や石、金属もある)という媒体に筆などで墨書することによって記録していました。これが古文書や日記・古記録と呼ばれるものです。当館でも平安時代の和紙に書かれた文書(重要文化財「鳥羽院庁下文」)や奈良時代の墨書木簡(長野県宝「屋代木簡」)が残されています。日本の「記録」の歴史を語る上で、和紙の持つ重要性を外すことはできません。
 いっぽう明治時代になると写真技術が広がり、一つの記録メディアとして活用されるようになります。現在ではスマホやデジカメなどデジタルが当たり前ですよね。明治20年代から昭和20年代くらいまでは「ガラス乾板」とよばれる技術が一般的でした。透明なガラス板の上にゼラチン質の感光剤を塗布し、撮影するというものです。昭和30年代頃からはロールに感光剤を載せた写真フィルムが登場しますが基本原理はガラス乾板とおなじです。むしろガラス乾板は熱による収縮度が小さいため記録保存としてはフィルムより優れているという声もあります。
 明治時代の資料の中には、このガラス乾板がたまに含まれています。
 今回はそのうち2枚を紹介しましょう。

 2015年に寄贈された室賀文書のなかに色あせたガラス乾板がありました。この人物は室賀甲斐守正容(まさかた)。江戸幕府15代将軍徳川慶喜の側近です。慶喜と越前藩主松平春嶽や山岡鉄太郎など著名人との連絡交渉をおこなった重要人物です。江戸・明治・大正期を生きた人物の横顔をわたしたちに伝えてくれます。
 ガラス乾板の持つ記録資料としての価値を如実に示す例が2枚目の古文書です。

「栗岩英治関係資料」の中にまぎれていました。1935(昭和10)年に栗岩が『信濃史料集成』(のちの『信濃史料』)刊行のために全国を調査した際の写真資料(「二宮氏泰書状案」)の1枚です。残念ながらこの古文書自体は1941(昭和16)年9月29日、火災により焼失してしまいました。當時の姿をうかがえる唯一の写真資料となっています。文化財としても、このガラス乾板は大変貴重なものといえます。
 例えば法隆寺金堂壁画を写したガラス原板(昭和10年)は、壁画が焼失してしまった現在ではその記録としての学術的意義は高いことから、国の重要文化財に指定されています。同じく大正末から昭和初期にかけて琉球の文化遺産を撮影した鎌倉芳太郎のガラス乾板もまた、沖縄戦の消失文化財の記録として同じく重要文化財に指定されているのです。さて栗岩英治らが撮影したガラス乾板は当館所蔵だけでも1,799点。失われた文化財も含まれています。その資料的価値はいうまでもありません。

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