古文書公開日記33―女子挺身隊からの手紙―
先日購入した「女子挺身隊だより書簡綴」を紹介します。
第2次世界大戦末期、戦局は目に見えて悪化していました。女子挺身隊は12歳から40歳までの日本人未婚女子を対象に、軍需工場などへ強制動員する1944(昭和19)年8月の女子挺身勤労令に基づくものです。この年の秋、隊員として長野市から神奈川県大船の三菱部隊・富山県の不二越部隊に配属された女子学生が長野市教育委員会担当主事へ報国作業の日常業務を書簡にして送ったものです。女子学生の勤労動員を教育委員会が斡旋することで、不足する労働力を確保しようとした国策の一環です。書翰からは担当教諭への謝辞のほか、動員隊員の日課などがうかがえます。彼女たちの勤労意識とともに、志願に対する、国威発揚に感化された女学生の心情が縷ゝ綴られています。そのなかでもお菓子のこと、友人との談笑など戦時も今も変わらぬ10代の少女らしい等身大の表現とともに、空襲警報や防空壕の記事など非常時の緊迫した様子もうかがえます。
いっぽう、担当教諭だった傳田精爾氏も女学生たちへ丁寧に返信をしたためていたようで、隊員たちの第2第3の返信には傳田先生への感謝と悪化する体調への思いやりが読み取れます。この簿冊からは、国策とはいえ、学びをいったん中断し勤労動員していく教え子たちとのつながりを大切に保管していた教育者としての傳田氏の姿が浮かび上がってきます。。
次のはがきは富山市の不二越へ動員された吉野美登里さんのはがきです。
前略
訓練期間の一週間を過ぎ今日隊員一同益々元気に頑張つて居ります故何卒御安心下さいませ。足の悪い経田さんも無理しない様注意致して居りますが、大して皆に遅れず教練されて居ります。今晩はお菓子の配給で皆一室に集つてニコニコ顔です。遠く家郷を離れて居れば皆んな心からとけ合ひなごやかな風情です。二十九日の夜は警戒警報が発令されました。長野市隊員十七名は一箇所に集まり待機致して居ましたが、慌てる者恐れる者等一人もなく「大君の辺にこそ死なめ…」の精神で落着(おちつい)た隊員の行動に涙が出る程嬉しくすつかり安心致しました。「心の備あれば憂なし」で朗です。
出征將士の壮途にも勝る歓送を身に受け喜びに泣いた出発のあの日の感激を平常心とし前線将兵はもとより家郷の皆々様の御期待に添ふべく必死増産勝利への補給に突撃致す決心です。では寒気に向ふ折、先生もくれぐれも御自愛なされます様習田先生によろしくお傳へ下さいませ。乱筆にて。草々。
つぎは名古屋の三菱大船寮の鳥居いよ子さん、昭和20年3月21日付書簡です。
先生、又も小癪にも敵は昨日やつて参りました。しかし幸せに一同無事今日も歩いて工場へやつて参りました。ご安心ください。昨日私達の眼前に展げられた悲惨な行景(ママ)に接し、純真な皆は「今はどうしても工場に行くのだ」とやつて参りました。熱田から不通の電車道を歩いて参りました。昨夜ほど私達にとって夜の来るのが怖いと思つた日はありません。(中略)菱南寮の一部は灰に帰しました。先輩の方の寮はよかつたそうです。しかしお気の毒に一名が直撃弾のため亡くなられました。(下略)
同じく三菱大船寮の鈴木ちえ子さんの3月24日書簡から。
先生、今夜も又帰省なさる方がありますので取り急ぎ一筆申し上げます。三回の空襲に今ある事は全く不思議な程でございます。今夜ばかりはどの位怖い目に逢ひました事か、考へるさへも身がゾツとします。挺身隊、文字通り私達は身を挺してたゝかつております。工場内も挺身隊と学徒が残るのみ。本当に私達の存在は重大なのでございます。飛行機増産に出かけたのが遅かつたのです。私達の進出が少し遅すぎたとつくづく感じさせられました。(中略)電車の中よりみる街は筆舌につくされません。(後略 写真は不二越富山工場の女子挺身隊員。吉野美登里さんが傳田氏へ提供したもの 当館蔵)
書簡は昭和20年6月18日分で終わっています。戦時体制に10代の女子学生が組み込まれていった様子の一端がうかがえる資料です。
傳田精爾氏は1890(明治23)年1月1日生まれ。小学校教諭を経て昭和17年から長野市視学委員となっています。なお傳田氏は1924(大正13)年、松本女子師範学校付属小で起きた「川井訓導事件」(修身事業で国定教科書を使用しなかった川井清一郎訓導が退職を余儀なくされた自由主義教育への弾圧とされる事件)では、主席訓導としてこの処置に抗議し退職した人物として知られています(『長野県教育史』第3巻など)。傳田氏が長野市視学委員の時期である昭和19年8月には跡継ぎ正人氏が戦死、翌年1月養子哲郎氏も戦死しています。まさに女子学生とのやりとりの最中に身内の不幸が立て続けに起こっていたのです(小林忠一「傳田精爾先生」『高井』83、1988年)。
戦後県教育委員会社会教育課長を経て中野市教育委員会教育長となります。また傳田氏はアララギ派の歌人でもありました。雑誌「ヒムロ」編集・発行を、創刊者である森川汀川より引き継ぎ継続発刊したことでも知られます(森川氏については当館収蔵史料3-28「森川汀川蔵島木赤彦追悼短歌」解題参照)。国文学者西尾実氏が傳田精爾氏を「気骨稜稜とか、反骨精神があるとかいうような点で信州的特色を発揮した人ではない。むしろそれとは反対ともいうべき人間理解の豊かさや反骨精神や非反骨精神をもそれぞれ正しく位置づけて抱擁するといったような柔軟さを持った、誰にも近づきやすく親しみやすい包容力豊かな点で信州にはまれな人材であった」と評しています(雑誌『ヒムロ』1968年10月号、10頁)。なお傳田氏は1934(昭和9)年まで信濃教育会機関誌『信濃教育』編集委員でした。1933年頃から信濃教育会の自由主義教育に対する攻撃がおこなわれました(「二・四事件」)。傳田氏は自由主義的な論調の教師と目されていたようです(『長野県教育史』第3巻。越川求「1930年代「長野県教員赤化事件」の研究」『立教大学教育学科研究年報』64、2018年)。こうした自由主義的な精神に根差した暖かな人間性が、戦時中の女学生への愛情につながったのでしょうか。