古文書公開日記32-江戸時代の富士信仰と即身仏(そくしんぶつ)―
コロナウイルス感染防止ということで当館は休館になっています。「3密」をなくすために、職員は在宅勤務をとったりお休みを頂きながら、毎日の出勤者は通常より大幅に少なくしています。日常生活へ早く戻れるよう収束することを願わずにはいられません。また先月の古文書公開ブログの反響は大きく、ツイッターやフェイスブックでもシェアされたり、新聞社でも取り上げて頂きました。今しばらく辛抱が必要です。
とはいっても当館には手つかずの古文書は万単位でありますから、遅々ながら整理を続けなければなりません。きょう整理した古文書の紹介をします。
江戸時代の終わり頃の文書が中心にまとまっている小県郡秋和村工藤家文書(家番号1-19)約150通です。おもには工藤太仲という人の関係のものです。庄屋をやっていたようで、その関係の古文書が多いのですが、面白いのはこの家の太仲という人がとても信仰心が厚いということです。その関係の書物もバリエーションに富んでいます。1852(嘉永5)年、彼は思い立って、全国各地の神社に参詣し、経典を奉納しようと思い立ちます。上田から越後、富山をへて越前気比社、さらに美濃・尾張・伊勢を経て畿内各地をめぐり、西は出雲まで出かけています。太仲は証拠の「御朱印」を丁寧に頂き冊子に貼り合わせました。
このとき、関所や村々を無事通行できるように、藩の役人の手形をもって行きます。そこには、もし病気になれば、近国では在村へ飛脚で知らせ、遠国の場合はその土地の領主を通じて江戸の藩役場へつないでほしい、と記されています。
この手形も冊子に貼り合わせ1冊の堂々としたアルバム帳としたのです。その名前は「願主 行者工藤太仲」とあります。
物見遊山ではなく、修行者として参詣していたことがわかります。
太仲の所持品のうち、目に付くのが「食行身録□菩薩」関係史料です。食行身録は富士講の第六世で、中興の祖と言われる人物です。名前の通り富士講は富士山信仰の結社です。食行身禄が「弥勒の世の到来」を告げ、1733(享保18)に富士山の烏帽子岩で断食入定を始めました。弟子の田辺十郎右衛門らに「三十一日之巻」を伝授し、約1ヵ月後に即身仏となりました。世の中の不安(飢饉や物価の高騰、一揆など)に対して自ら弥勒菩薩となることでそれを鎮めようとしたのです。身禄が即身仏となった知らせは、江戸に伝えられ、瓦版が出たといいます。かくして全国にこの富士信仰が広がっていきました。太仲はこの富士講の信者であったらしく、嘉永5年には富士浅間神社にも寄っています。また食行身禄の行状記も所持していました。
工藤家文書はまもなく公開されます。
※□は人偏に杓。