古文書公開日記31-100年前のスペインインフルエンザ-
1920(大正9)年1月29日付笠井三郎書簡(今井信雄氏収集資料)を紹介します。笠井は赤羽王郎とともに、信州白樺派の代表的な教師でした。「新しい村」信州支部長に就き、小学校で自由教育を実践した人物です。この書簡は、南箕輪小教員であった笠井が稲荷山の酒造家宮越喜一郎にあてたもの。「大変感冒が至る所に流行していますが、皆様は如何でせう。僕も少し風気味でもう十日許りになります。大したことにハならないと信じて居ますが、出来るだけの注意は怠りません」と笠井は記します。通常なら「ただの風邪」だと気にも留めない書簡ですが、これはちょうど100年前に長野県民に多大な被害を与えていたスペインインフルエンザのこと。笠井はこれに罹患したとみられます。
この2年前の1918(大正7)年3月、第1次世界大戦のさなか、アメリカ・カンザス州で、肺炎と猩紅熱(しょうこうねつ)の症状をもった兵士が多数報告されました。戦時ということもあり、また症状も治まることからほとんど無視されました。アメリカだけでなく交戦中だった諸外国にも流行していたのですが、自国の疫病流行の事実をどこも公にしなかったのです。たまたま中立国だったスペインは、5月から6月に間に国王や大臣を含む約800万人が新インフルエンザに罹患したことを報道したことで、世界に流行状況が知れ渡ったのです。そのニュースソースからこれを「スペイン・インフルエンザ」と呼ぶ所以です。日本では、早くも4月に台湾に巡業遠征していた大相撲の力士たちが、悪寒から倦怠感・高熱・腰痛などの症状を伴う謎の熱病に次々に罹患しました。
このインフルエンザはその年の夏には変異し、第2波として猛威をふるいました。アメリカ兵の第1次大戦の戦死者の8割はこのウイルスによるのではないかともいわれています。日本には9月に上陸し下旬から3週間の内に全国へ広がりました。長野県は、10月23日付信濃毎日新聞の記事によると「長商(現長野商業高校)にも力士病」という見出しが最初です。まだ「謎の高熱病」ということで「力士病」と呼んでいたことがわかります。とくに狭い空間に密集し換気のない製糸工場で大量の感染者が出て、諏訪地方の製糸工場は大きな打撃を受けた模様です。1918年秋から19年冬にかけて長野県内で62万人の患者、死者は6000人余りとされています。
笠井が感染したのは第3波のインフルエンザでした。1919年秋から翌1920年3月にかけて流行しました。とくに郡部での死者は日ごとに増え、2月上旬には死亡者が長野県内で1日平均40~50名に達しました。特徴は、第2波に比べて患者数は大幅に減ったものの、患者死亡率は11.2パーセントもの高率にのぼっています。免疫ができたものの、ウイルスは強毒性に変異したため、多くの死者が出たのです。(速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店、2006年)。
笠井は4月30日の宮越への手紙に「姉さまも湯(薬)が大変良かった」「ちかしい人達の健在程嬉しいものはない」と記し親族のインフルエンザからの生還を記す一方、「久しいこと友は病気で臥せって居る」となお伊那で感染が続いていることを述べています。この未知なるウイルス、長野県は、全国でももっとも遅くまでこの流行に悩まされた地域として知られています。
昨年亡くなられた速水融先生は2006年の著書にこう記します。当時の政府はマスクの使用、うがい手洗いの励行、人ごみを避けるなどの通告を繰り返して促した、小学校や中等学校は休校とした、これらはわれわれが唯一とり得る対処法であり、こういった対策が当時の人口に対して死亡者数0.8パーセントに抑えられた理由である、と。つまり今まさに流行するこの新型コロナウイルス対策は変わってい
ないのです。ウイルスとの戦いは永久に繰り返される、歴史はこれを証明しています。(感染症対策については茅野市役所に掲載されている諏訪中央病院の玉井先生の解説が参考になります→こちら)