古文書公開日記27-維新の打ちこわし史料-
南牧村といえば長野県では「みなみまき」村を思い出しますが、群馬県には同じ漢字で「なんもく」村があります。佐久地方との国境の地域で、江戸時代は砥沢関所がありました。五郎兵衛新田を開発した市川五郎兵衛実親はここの出身です。古くから上信国境の往来の場として行き来がありました。
さて、1868年、いわゆる明治維新の新政府軍が京都から東山道軍として進発します。各地では長きにわたり続いた江戸幕府に対する反発や新しい政府に対する期待が生じました。なかにはこれまでの債権・債務を棄破しようという「御一新」の動きが散発します。
当館所蔵の「東山道軍関係資料」には激動の情勢を伝える生々しい資料がいくつもあります。例えば南牧村の百姓らが内山峠を越えて佐久諸村にまで乱入するという噂が立ちました。そして「質屋・酒屋・穀屋・蚕種糸師らに暴行し、あるいは有徳の者たちへ融通を掛け合い」、「異論をはさめば打ちこわし・放火に及ぶ」という風聞があり人数も領内に集まりだしたので藩兵をだしたということを届け出ている、小諸藩奉行隅部司馬之助の届があります。この事件は2月23に上野国多胡郡神保村辛科神社に集結した世直し一揆は3月9日下仁田の商人を襲い、11日には佐久へ下ったといいます。志賀村・平賀村・瀬戸村などで、米の安出荷を要求し、拒否されると打ち壊しました。本文にあるように、有徳の者どもに融通をかけあったというのはこれを指します。
質屋・酒屋・穀屋などは地域の中の有力商人であり、隣国の百姓たちまでも債務を負っていたことがうかがえます。中世の徳政令を求めた一揆と変わらないですね。